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60-6.畿内と東国の最後の前方後円墳 [60.古墳時代の終焉]

畿内ではTK43(550年~580年)の時代に、概ね前方後円墳の築造が終焉を向かえている。しかし、TK209の須恵器が出土し最後の前方後円墳と思われるのが、桜井市穴師にある珠城山古墳群(1号~3号)の1号墳(墳長50m)と3号墳(墳長45m)である。両古墳共に墳丘には埴輪が据えられ、埋葬施設は横穴式石室で1号墳は現存し公開されているが、3号墳は開発により墳丘共々消失している。珠城山古墳群は2号墳→1号墳→3号墳の順に築かれたと見られている。

 

珠城山3号墳より出土した馬具の金銅製杏葉は、心葉形の鉄地板に透彫りの薄板を重ね、縁板を多数の笠鋲で留めてある。群馬県高崎市の綿貫観音山古墳(TK43出土)からも同じ金銅製杏葉が出土している。綿貫観音山古墳の透彫りの模様が左右に対称的の唐草文様に対し、珠城3号墳のものは左右に対称的に向き合う鳳凰文に、さらに精緻な線刻で文様を描いており、綿貫観音山古墳のものよりも時代的に新しいものであると感じられる。大和で最後の前方後円墳は珠城山3号墳で、TK209古(580年~600年)の時代と言えよう。珠城山3号墳から南西1kmに最古の大型前方後円墳と言われる箸墓古墳がある。箸墓古墳の時代から珠城山3号墳の時代まで、約330年の年月が経っている。

 

Z164.金鈴塚古墳.png古墳後期後半の前方後円墳の数が最も多い千葉県(上総・下総)では、概ねTK209古(580年~600年)の時代に前方後円墳の築造が終焉を向かえており、最後の前方後円墳は千葉県にあると考えられる。上総の最後の前方後円墳候補は長須賀古墳群(木更津市)にある金鈴塚古墳(墳長90m)である。この横穴式石室からは大刀・甲冑・馬具・金銅製金具・飾履・鏡・銅椀・金銀製品・須恵器などおびただしい副葬品が出土し、奈良県の藤ノ木古墳に匹敵するほどである。その中に純金製の鈴が5個あったことから、金鈴塚古墳という名前が付けられた。金銅製唐草透彫金具や承台付銅椀などの副葬品から7世紀初頭の築造と考えられている。

 

下総の最後の前方後円墳候補は竜角寺古墳群(印旛郡栄町)にある浅間山古墳(墳長78m)である。埋葬施設は副室構造の横穴式石室で、前室と後室の入り口には玄門があり、これらの壁や門柱石には白土が塗られている。後室には箱式石棺があり、前室からは漆膜の断片が多量に出土し漆塗木棺があったものと推定されている。副葬品は冠・大刀・挂甲・馬具・飾履・須恵器などである。冠は金銅製と銀製の二つがあり、金銅製の冠は連珠文と唐草文の透彫りで、法隆寺金堂釈迦三尊像の脇侍の光背の文様と同じである。金銅製馬具の杏葉には毛彫り(線彫り)された文様があり、仏教美術に通じるものである。これらの副葬品より、7世紀初頭の築造と考えられている。

 

群馬県(上野)で最後の前方後円墳候補は、高崎市にある八幡観音塚古墳(墳長97m)で、墳丘には円筒・器財・人物・動物埴輪がある。横穴式石室の石室長は15mで、50トン以上の天井石など多くの巨石が使われており、その石積の技術は大和の影響を受けたものではないかと考えられている。八幡観音塚古墳からは、大刀・挂甲・馬具・鏡・銅椀・須恵器など、300点を越える副葬品が出土している。仏具に由来する承台付銅椀や金銅透彫杏葉の形と文様が法隆寺金堂釈迦三尊像の脇侍の光背と同じであることから、仏教文化の影響を受けた7世紀初頭の築造と考えられている。

 

最後の前方後円墳候補として、大和では珠城山3号墳、上野では八幡観音塚古墳、上総では金鈴塚古墳、下総では浅間山古墳を取り上げた。これらの古墳に共通するものは、金銅製の馬具や飾具に透かし彫りの技術が見られることだ。飛鳥時代には、透かし彫りの技術は仏像や寺院装厳具の製作に生かされたのであろう。前方後円墳の終焉は寺院建築の普及と大きく関わっているのであろう。

 

Z165.透かし彫り技術.png

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