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60-4.古墳後期と飛鳥の須恵器編年 [60.古墳時代の終焉]

古墳時代後期の須恵器の編年において、その実年代(西暦○○年)を確定する手がかりは以外と少ない。埼玉県行田市にある稲荷山古墳から出土した金象嵌鉄剣には「辛亥の年7月中に記す・・・」とあり、辛亥の年は471年と考えられている。埼玉稲荷山古墳の造出しから出土した須恵器はTK23・TK47と判定されている。奈良県明日香村の飛鳥寺の下層からTK43の須恵器片が出土している。『日本書紀』には崇峻元年(588年)に「飛鳥衣縫造の先祖樹葉の家を壊して法興寺を作り始めた。この地を飛鳥の真神原と名付けた。」とあり、TK43は588年の直前か、その少し前の年代と見られている。

Z160.杯の変遷4.png古墳後期から古墳終末期(6世紀から7世紀)の須恵器の編年は、杯(杯身・杯蓋)の法量・形状に注目して行われている。杯の変遷からすると大きな画期は、TK217古=飛鳥Ⅰ新の段階から宝珠つまみ付き杯(杯G)が登場することである。杯Gは図Z160にみられるように、杯蓋に宝珠つまみとカエリが付いていて、杯身の口縁にカエリがない。それまでの杯(杯H)は、杯身の口縁にカエリという部分があり、その部分に杯蓋が被さるように出来ており、杯蓋の口縁にはカエリはない。なお、飛鳥Ⅲからは杯Gに高台の付いた杯Bが登場し、古墳時代以来の杯H(カエリ付き杯身)が消滅する。

大阪狭山市にある狭山池は、『書紀』にも記載がある我が国最古のため池である。平成の改修工事の発掘調査で、コウヤマキの丸太を刳り抜いた樋管が発見された。このコウヤマキの樋管は年輪年代法の測定より、616年(推古24年)に伐採された木材であることが確定された。この樋管が埋められていた地層にある池尻遺跡、その地層の上に築かれた堤防上に作られた須恵器の窯(狭山池一号窯)から出土した須恵器はTK217型式の古層段階(飛鳥Ⅰ併行)であった。狭山池一号窯(616年+α)の灰原からは、わずかである宝珠つまみ付き杯(G杯)が出土している。

豊浦寺の軒丸瓦を焼成した隼上り窯跡(京都府宇治市)の2号窯から、少量のG杯が出土している。豊浦寺の発掘調査では、豊浦寺下層や周辺から宮殿跡と思われる掘立柱建物や石敷が発見され、豊浦寺は推古天皇の豊浦宮(592年~603年)の跡に建てられたと考えられている。『書紀』推古36年(628年)の記事に、聖徳太子の息子の山背大兄王が「以前に叔父(蘇我馬子)の病を見舞おうと、京に行って豊浦寺に滞在した。」とある。蘇我馬子は推古34年(626年)に亡くなっている。これらより豊浦寺の創建は603年から626年の間であることが分る。狭山池一号窯と隼上り窯2号窯から、TK217古=飛鳥Ⅰ新の始まり、宝珠つまみ付き杯(杯G)の登場は620年と比定することが出来る。

飛鳥の山田寺跡(桜井市山田)の整地層やその下層から飛鳥Ⅰの新しい段階の須恵器が出土している。山田寺は『聖徳法王定説』の裏書から辛丑年(641年)に造営が開始されたとしている。明日香村甘樫丘東麓遺跡の焼土層から飛鳥Ⅰの新しい段階の須恵器が出土している。この遺跡の焼土層は645年の乙巳の変で焼かれた蘇我氏邸宅のものと推定されている。明日香村の水落遺跡から飛鳥Ⅱの新しい段階の須恵器が出土している。この遺跡は斉明6年(660年)に中大兄皇子が設けた漏剋(水時計)の跡と考えられている。この漏剋は天智6年(667年)の近江遷都、あるいは天智10年(671年)の近江での漏剋設置まで使われていたと考えられている。

 Z161.須恵器の編年(完).png

これらを基本として、「41-5。須恵器の編年表」に示したものと重ね合わせて、須恵器の編年に実年代を定め表Z161に示した。新たに定めた年代は、TK10・MT85(520~549年)、TK43(550~579年)、TK209(580~619年)、TK217(620~669年)であり、飛鳥編年は飛鳥Ⅰ(600~639年)、飛鳥Ⅱ(640~669年)と定めた。飛鳥Ⅲの年代は表示していないが、TK217と飛鳥Ⅱの後の670年以降となる。なお、表162に飛鳥時代の宮と須恵器の編年表を重ね合わせてみた。

Z161-Z162.須恵器の編年(完).png

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