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59-8.「法興」の年号は実在した [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

大山氏を初めとする学者の方々は、法隆寺系史料の金石文が推古朝ではなく、厩戸王の死後一世紀後に捏造されたものであるとしている。後世の捏造のものとする根拠の第一は、薬師如来像光背銘・天寿国曼荼羅繡帳にある君主号の「天皇」、釈迦像光背銘にある「法皇」という語句である。第二は釈迦像光背銘にある「法興」という年号であり、第三は天寿国曼荼羅繡帳にある孔部間人母王の命日が持統4年(690年)から使用された儀鳳暦で記されていることであった。

 

釈迦三尊像光背の銘文の出だしには、「法興元卅一年歳次辛巳十二月 鬼前太后崩」とある。「鬼前太后」は聖徳太子の母・穴穂部間人王(用明天皇皇后)のことであり、辛巳の年は推古29年(621年)にあたる。大山氏は、「法興元」というのは、法興寺(飛鳥寺)が始まった年を基準とした私年号(『日本書紀』に現れない年号)と考えられているが、「大化」という年号が定められて大化の改新以前に、日本国内で年号が使用された証拠はないとして、釈迦像の銘文は推古朝に成立したものでなく、後世に捏造されたものだという証拠の一つとしている。

 

『伊豫国風土記』逸文によると、「法興六年十月、歳丙辰に在り。我が法王大王と恵慈の法師及葛城臣と、夷與の村に遊び、神の井を観て、その妙験に感嘆して碑文を作った。・・・・」とある。『伊豫国風土記』の逸文にある「法興6年丙辰」は推古4年(596年)にあたり、法興元年は崇峻4年(591年)となる。釈迦像光背の銘文の「法興31年辛巳」は推古29年(621年)にあたり、法興元年は伊豫国の風土記と同じ崇峻4年(591年)である。全く関係の無い釈迦三蔵像光背銘文と『伊豫国風土記』に使われた「法興」の私年号の元年が、同じ年を示していることは、「法興」の年号が実際に存在していた証拠であると思える。


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