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59-5.野中寺の弥勒菩薩像に刻まれた天皇号 [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

Z142.野中寺弥勒菩薩.png大阪府羽曳野市にある野中寺の境内には、古代寺院の礎石が残っており、塔心礎の支柱孔は円柱の周囲三方に添柱を付した形のもので、聖徳太子建立七大寺の1つとされている飛鳥橘寺の塔心礎の柱穴と同じ形をしている。野中寺からは、船橋廃寺式の素弁蓮華文瓦(630~640年)が出土しており、推古朝に建てられた46寺院の一つと見られている。野中寺には像高18.5cmの弥勒菩薩半跏像があり、弥勒象の台座には縦に2字、31行に銘文が刻字され、その中に「天皇」の文字がある。


「丙寅年四月大八日癸卯開記 栢寺智識之等 詣中宮天皇大御身労坐之時 誓願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等 此教可相之也」

 

「丙寅年四月大」の「大」は、旧暦(太陰暦)で1ヶ月が30日の月である。ちなみに「小」は29日の月となる。「八日癸卯開」の「開」は、日々の吉凶を判断する十二直(暦注)で、「建・除・満・平・定・執・破・危・成・納・開・閉」がある。我々が良く知っている「大安」とか「友引」というのは、六曜という暦注である。飛鳥寺の北西にある石神遺跡から円盤に書かれた具注暦の木簡が出土しているが、この暦は持統3年(689年)己丑の年もので、復元図(『飛鳥の木簡』市大樹、中央新書)をみると、「四月大」や「廿一日癸卯開」の文字がある。

 

Z143.野中寺銘文.png野中寺弥勒像の銘文「丙寅年四月大」と「八日癸卯開」は、元嘉歴で天智5年(666年)4月8日のみが該当する。しかし「丙寅年四月大」と「八日癸卯開」の間にある緑色マークの○の字(写真Z143)の読みには諸説がある。通説では「旧」と読んで、新しい暦(儀鳳歴)が使われる時代に、以前使用されていた「旧」の暦(元嘉暦)で記したことを示したものであると解釈している。そして儀鳳歴と元嘉暦が併用された持統4年(690年)、もしく儀鳳歴のみが用いられるようになった文武元年(697年)以降に、野中寺弥勒像の銘文が刻字されたと解釈している。

 

因みに丙寅年(666年)では、元嘉暦では4月8日が癸卯であるが、儀鳳歴では4月7日が癸卯であり、1日の違いでしかない。確かに緑色マークの○の字は「旧」の字に見えなくはないが、儀鳳歴が使われている時代に、元嘉暦が使われていた昔の時代の事を記録しておくのに、わざわざ「旧」の暦(元嘉暦)で記していることを表わす必然性があるようには思われない。まして銘文が後世に捏造されたものとするならば、その証拠となるような文字「旧」を入れることはしないであろう。このような説が通説としてまかりとっているのは、この説自身に説得性があるということでなく、天智朝には「天皇号」の使用がなかったという先入観があるためであろう。

 

緑色マークの○の字は「朔(ついたち)」の略字であるとの説がある。写真143を見ると、○の字のツクリの部分は「月」に見える。話は飛ぶが、1971年に韓国忠清南道公州市(百済の都)の宋山里古墳群から墓誌が出土し、武寧王陵として王墓が特定された。墓誌には「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、
癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」とあり、5月朔の干支「丙戌」を記載している。干支は丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰であり、5月7日の干支が「壬辰」であれば、5月1日が「丙戌」であることは自明の理であり、日常用いる暦では「丙戌朔」は省略されている。野中寺弥勒像の銘文は、「丙寅年四月大丙申朔八日癸卯開」の「丙申朔」を省略すべきところを、間違って「丙申」のみを省いたのであろう。野中寺弥勒像の銘文、天智5年(666年)4月8日に刻字されたものであると考える。

 

「中宮天皇」については該当の天皇がなく、像の成立年代から斉明天皇説・間人皇女説・天智天皇説がある。しかし『日本書紀』・『古事記』・『風土記』において、天皇名に「宮」を冠する場合、必ず宮を設けた地名が付いている。斉明7年(661年)斉明天皇が崩御されてから、天智6年(667年)に近江に都を遷し即位するまで、称制(即位の儀式を行わないで天皇の政務をとること)であった天智天皇は、660年に唐に破れた百済を復興させようと、都を長津宮(福岡市)に遷し軍政を執っている。天智天皇は長津宮天皇と呼ばれていたが、それが訛って(長津宮→那珂津宮→那珂宮→中宮)中宮天皇となったのであろう。

 

天智2年(663年)に倭国の水軍は白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に破れてから、天智天皇は飛鳥に戻っていた。『書紀』によると天智5年3月に、天智天皇は乙巳の変で共に蘇我入鹿を斬った佐伯小麻呂連の家に病気見舞いに行っている。小麻呂は流行り病で天智天皇が感染し臥したと想像する。野中寺弥勒像の天智5年4月8日付けの銘文は、「中宮天皇大御身労坐之時 誓願之奉弥勒御像也」とあるように、天智天皇の病気平癒を願って造られたものである。野中寺の弥勒菩薩半跏像にある銘文は、天智5年(666年)には天皇号が使われていたという史実を伝えている。

 

今年(2017年)1月、京都市左京区の妙伝寺が所蔵する江戸期の作とされていた本尊「半跏思惟像」(如意輪観音像:高さ50cm)が、金属成分の調査から、7世紀朝鮮半島で作られた可能性が高いとの報道が、新聞・テレビでなされた。この調査にあたった大阪大学の藤岡穣教授(東洋美術史)は、これまで日本・韓国・中国などで約400体の仏像を蛍光エックス線分析している。藤岡教授は2014年4月東京国立博物館研究誌『Museum』に、「野中寺弥勒菩薩像について―蛍光X線分析調査を踏まえて―」の論文を発表され、「銘記の丙寅年を666年と解釈し、それを制作ないし銘記鐫刻の時期とみなすのが妥当」と結論付けている。

 

船氏王後墓誌銘と野中寺の弥勒菩薩像台座銘は、天智朝に「天皇」号が使われたことを示しており、天智天皇の第一皇子である大友皇子が詠った漢詩にある「皇明」とは、天皇の威光という意味であることが分る。中国の唐の高宗皇帝が「天皇」の称号を使う以前から、倭国では「天皇」の語句が使われていた。


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