SSブログ

59-4.天智朝には「天皇」号が存在していた [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

Z140.天皇木簡.png1998年に奈良国立文化財研究所が、飛鳥池遺跡から出土した木簡の中に、「天皇」の語が墨書きされたものがあると発表した。この木簡は飛鳥池遺跡の北地区の、持統朝を下限とした溝のさらに下層から出土しており、この遺構から伴出した木簡の「サト」表記は、すべて「五十戸」であった。飛鳥から出土した多量の荷札木簡から、「サト」が「五十戸」から「里」に切り替わったのは、681年から683年頃であることが分っている。これらより「天皇」の語が墨書きされた木簡は、683年(天武12年)以前に書かれたものであることがわかる。「天皇」木簡が出土した同じ遺構から「庚午」天智9年(670年)、「丙子」天武5年(676年)、「丁丑」天武6年(677年)の紀年木簡が伴出しており、「天皇」号の表記が683年(天武12年)以前から使用されていたことは確かである。しかしながら「天皇」木簡の年代からは、「唐の高宗の上元元年(674年)に、君主の称号が『皇帝』から『天皇』に代ったが、その情報が天武朝(672~686年)に倭国に伝わった。」とする、従来の定説を覆すことは出来ない。

 

墓誌Z141.船氏王後.png三井記念美術館所蔵の国宝「船氏王後墓誌」は、江戸時代に大阪府柏原市国分の松岡山から出土したと伝えられ,その後長く西琳寺に蔵されてきた。墓誌の正確な出土地点や,埋納状況については全く不明である。墓誌は29x7x0.2センチの銅板で、表に4行86字、裏に4行76字が刻まれている。銘文の概要は「船氏の故、王後首は敏達天皇の世に生まれ、推古天皇の朝廷で仕え、舒明天皇の代に至った。大仁の官位を賜った。舒明天皇の末年、辛丑(641年)12月3日に死亡した。そこで戊辰年(668年)12月、松岳山の上に葬った。」である。銘文にある「船氏」について『書紀』は、欽明14年(533年)に「蘇我稲目の下で王辰爾が船の賦を数え録し,その功で船長となり船氏の氏姓を与えられた。」と、敏達元年(572年)に「高麗の国書を誰も読みとれなかったが、船史の祖王辰爾のみ解読し、天皇が王辰爾を大いに賞讃した。」と、皇極天皇4年(645年)に「蘇我蝦夷が殺されたとき、船史恵尺が焼かれようとした国記をとり出して、中大兄皇子に奉献した。」と記載している。

 

戊辰の年(天智7年:668年)に成立した「船氏王後墓誌」には、乎娑陀宮天下治天皇(敏達天皇)、等由羅宮天下治天皇(推古天皇)阿須迦宮天下治天皇(舒明天皇)の銘が刻字され、天智7年(668年)に「天皇」号が使われていたという史実を伝えている。ただ、「船氏王後墓誌」の出土状況が明確でなく、天智朝に「天皇」号が使われていたという証拠になり得ていない。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。