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59-3.聖徳太子実在の鍵は「天皇号」 [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

大山氏を初めとする学者の方々は、法隆寺系史料の金石文が推古朝ではなく、厩戸王の死後一世紀も後に捏造されたものであるとしている。その根拠の第一は、薬師如来像光背銘・天寿国曼荼羅繡帳にある君主号の「天皇」、釈迦像光背銘にある「法皇」は、推古朝には存在しない。第二は、釈迦像光背銘にある「法興」という年号は実在しない。第三は天寿国曼荼羅繡帳にある孔部間人母王の命日が、持統4年(690年)から使用された儀鳳暦で記されていることであった。

Z139.法隆寺薬師如来像.png 

法隆寺の金堂に安置されている国宝の薬師如来像の光背銘には「天皇」銘が3ヶ所刻まれている。その内容は「用明天皇が病気になら
れた時、丙午の年(586年)に推古天皇と聖徳太子を召して、病
気平癒のため寺を造り薬師像を作ることを請願されたが、それがか
なわぬまま亡くなられた。そこで、推古天皇と聖徳太子が丁卯の年(607年)に作り奉った。」とある。用明天皇は「池辺大宮治天下天皇」、推古天皇は「小治田大宮治天下大王天皇」・「大王天皇」、聖徳太子は「太子」・「東宮聖王」と刻まれている。

 

この銘文について大山氏は、「唐の高宗の上元元年(674年)に、君主の称号が「皇帝」から「天皇」に代ったが、その情報が天武朝(672~686年)に倭国に伝わり、持統3年(689年)に制定された浄飛鳥御原令において正式に採用され、天武天皇に対して最初の「天皇」号が捧げられたというのが定説となっている。・・・・三度も天皇号を使用した薬師像の銘文は、天武・持統朝以後の成立で、607年(推古15年)のものとしては偽物ということにならざるを得ないのである。」と述べている。「天皇号の成立」という大命題を論破しなければ、「聖徳太子が実在した」ことを証明は出来ない。

 

『懐風藻』は日本で最古の漢詩集である。選者は不明だが、序文には天平勝宝3年(751年)に完成したとある。天智天皇の御代から奈良時代にいたるまでの作者64名、120編の詩文を治めている。その第一番目の詩が大友皇子の詩である。大友皇子は天智天皇の第一皇子で、壬申の乱において叔父・大海人皇子(天武天皇)に敗北し自害している。大友皇子の漢詩の現代訳は、『懐風藻』(講談社学術文庫)、江口 孝夫による。

  皇明光日月  天子の威光は日月のようにこの世に光り輝き

  帝徳載天地  天子の聖徳は天地に満ちあふれている

  三才並泰昌  天・地・人ともに太平で栄え

  万国表臣義  四方の国々は臣下の礼をつくしている

 

この詩が詠まれた年月の記載はないが、表題には「侍宴」とあり、天智天皇の宴で、天皇の徳をたたえ、威光をのべ、隆盛を祝福している。『書紀』によれば、天智天皇は斉明天皇が崩御されてから、即位式を挙げないで政務をとられていた。この間に白村江の海戦があり唐に敗れている。そして、天智7年(668年)1月3日に即位され、7日に内裏で群臣を集め宴が催されている。漢詩の内容からすれば、この宴で大友皇子が詠ったのであろう。この詩の「皇明」とは、天皇の威光という意味であると江口氏は解説しており、「皇」のみならず、「天皇」の称号も天智7年(668年)には存在していた可能性があると思われる。

 

唐の高宗皇帝(650~683年)が君主の称号を「皇帝」から「天皇」に替えたのは上元元年(674年)であり、天智7年(668年)に倭国で「天皇」の称号が使われていたことを証明するためには、倭国に「天皇」の語句が、高宗皇帝が「天皇」の称号を使う以前に伝わっていたことを証明しなければならない。

 


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