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59-2.「聖徳」は『書紀』以前から伝承されていた [59.聖徳太子は実在し伝承されていた]

『書紀』は厩戸皇子について、「生まれてすぐ言葉を話され、優れた知恵があり、成人になると一度に十人の訴えを聞き分けることが出来き、先々の事まで見通された。」とある。厩戸皇子は厩戸豊聡耳皇子と呼ばれ、別名に豊聡耳聖徳・豊聡耳法大王とされている。『古事記』には「上宮之厩戸豊聡耳命」とあり、「豊聡耳」の名は『書紀』と同じである。「一度に十人の訴えを聞き分けることが出来きた」という逸話は、『書紀』が撰上される以前から伝承されていたことが分る。

 

『古事記』が712年に撰上された翌年に、風土記の編纂を諸国に命じている。現存している『風土記』は、常陸・播磨・出雲・豊後・肥前の五ヶ国で、その他の諸国の風土記は、他の書籍に引用されている逸文のみである。『播磨国風土記』に記載された地方の行政組織は国・郡・里である。地方の行政組織が国・郡・里から、国・郡・郷・里に代ったのは宝亀元年(715年)から宝亀3年(718年)であり、『播磨国風土記』は、『書紀』が撰上される720年以前に成立したことが分る。

 

Z138.風土記の天皇名.png『伊豫国風土記』は、鎌倉時代の『釈日本記』・『萬葉集注釈』に逸文が引用されている。『伊豫国風土記』の「湯の郡」の条では、天皇等の湯に行幸されたのは、大帯日子天皇(景行天皇)と大后八坂入姫、帯中日子天皇(仲哀天皇)と大后息長帯姫命(神功皇后)、上宮聖徳皇(聖徳太子)、岡本天皇(舒明天皇)と皇后、後岡本天皇(斉明天皇)、近江大津宮御宇天皇(天智天皇)、浄御原宮御宇天皇(天武天皇)を挙げている。『播磨風土記』・『伊豫国風土記』に記載された天皇の名称を『日本書紀』・」『古事記』の名称と比較し、表Z138に表わした。ただし、「宮」を冠した名称の天皇は省いている。表Z138から、『播磨国風土記』と『伊豫国風土記』逸文に記載された天皇名は『古事記』と一致することが分る。これらからしても、『播磨国風土記』と『伊豫国風土記』は『日本書紀』が撰上される以前に成立したことが明らかである。

 

『書紀』は推古3年に「高麗僧の恵慈が帰化し、皇太子(聖徳太子)の師となった」、「仏教を高麗の僧恵慈に習い、儒教を博士覚哿に学んで、どちらもことごとく習得された。」とあり、別名に豊聡耳法大王・法主王とある。『伊豫国風土記』には、「上宮聖徳皇が高麗の僧恵慈と共に伊豫の湯に行幸した。」、「法興6年10月、丙辰の年(推古4年:596年)に、法王大王と恵慈の法師および葛城臣と、伊豫の村に遊び」とある。皇太子(聖徳太子)が高麗の僧恵慈から仏教を学んで習得し、仏法の最高位者であり、「法大王・法王大王」と呼ばれたことは、『書紀』が撰上される以前から伝承されていたことが分る。

 

『書紀』は厩戸皇子を「皇太子」「上宮太子」と表記し、「聖徳太子」の呼称は一切使用していないが、別名として「豊聡耳聖徳」があると記している。『播磨国風土記』には「聖徳王」、『伊豫国風土記』には「上宮聖徳皇」とあり、皇太子(聖徳太子)は聖人であり「聖徳」と称されていたことが、『書紀』が撰上される以前から伝承されていたことが分る。大山氏は「厩戸王は実在の人物であるが、聖徳太子は実在しない。『日本書紀』の中で誕生した架空の人物である。」と主張しているが、少なくとも「聖徳太子は『日本書紀』の中で誕生した。」ということは、成り立たないことが分る。


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