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57-9.蘇我稲目・馬子が仏教の礎を築いた [57.蘇我氏の系譜と興亡]


飛鳥時代は宮都が飛鳥に営まれた時代というだけでなく、我が国が仏教文化を受容した時代でもある。『日本書紀』の欽明13年(552年)の記事には、「百済の聖明王が金堂仏像一体と幡蓋若干・経論若干を献じ、仏を広く礼拝する功徳を上表した。」とある。仏教伝来については、『日本書紀』が552年とするのに対して、『上宮聖徳法王帝説』・『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』では538年としており、どちらが史実であるか議論がなされているが、ここでは、『日本書紀』に従って記してみる。

欽明13年(552年)10月、欽明天皇は百済の聖明王の上表を聞き、「西の国が献上した仏像の容貌は荘厳で美しい、礼拝すべきかどうか」と群臣に問うた。蘇我稲目大臣は「西の諸国はみな礼拝しています。我が国だけが背くわけにはいかないでしょう。」と受容を勧めたのに対し、物部尾輿大連・中臣鎌子連らは「我が国の王(天皇)は、天地の百八十神を春夏秋冬にお祀りされてこられた。今改めて蕃神を拝せば、国神たちの怒りを受けるでしょう。」と反対した。欽明天皇が「稲目宿禰に試しに礼拝させてみよう。」と仰せになったので、蘇我稲目は小墾田の家に仏像を安置し、向原の家を寺とした。小墾田は大和国高市郡雷(明日香村雷)に、向原は大和国高市郡豊浦(明日香村豊浦)に比定されている。

後に国に疫病が流行し、多くの人民が若死にした。物部尾輿・中臣鎌子は「このようなことが起こったのは、私どもの計を用いなかったからだ。」と奏上し、仏像を難波の堀江に流し棄て、寺に火をつけて焼いた。『上宮聖徳法王帝説』には、「勅して蘇我稲目宿祢大臣に授け、興隆せしむ。庚寅の年、佛殿・佛像を焼き滅ばし、難波の堀江に流し却てき。」とある。庚寅の年は欽明31年(570年)で、蘇我稲目が亡くなった年である。物部尾輿が仏像を難波の堀江に流し棄て、寺に火をつけて焼いたのは、稲目が亡くなった年であった。

明31年(570年)蘇我稲目が薨去し、欽明32年には欽明天皇が崩御された。敏達元年(572年)に敏達天皇が即位され、物部守屋が大連に、蘇我馬子が大臣に就任した。敏達13年(584年)9月、蘇我馬子は百済からもたらされた仏像二体を請い受け、鞍部村主司馬達等らが探し出した、播磨國の高麗から来た還俗者の惠便を仏法の師とした。また、司馬達等の女・嶋(11歳)を出家させて善信尼とし、二人尼を弟子に付けた。馬子はひとり仏法に帰依し、三人の尼を崇め尊んだ。仏殿を家の東方に造営して弥勒の石造を安置し、また石川の家にも仏殿を造った。仏法の初めは、ここから起こった。

敏達14年(585年)2月、蘇我馬子は塔を大野丘の北に建て、塔頭に舎利を納めた。蘇我馬子が病気になったとき、天皇から「卜者の言葉に従って、父の崇めた仏を祭れ。」との詔を得て、弥勒の石像を礼拝した。この時、国に疫病が流行って、人民がたくさん死んだ。物部守屋大連と中臣勝海大夫は「欽明天皇から陛下の御世に至るまで、疫病が流行し、国民が死に絶えようとしているのは、蘇我臣が仏法を起こして信仰しているからです。」と奏上し、天皇は「明らかなことだ。仏法を止めよ。」と仰せになった。物部守屋は自ら寺に赴き、塔を倒し仏像と仏殿を焼き、焼け残った仏像を難波の堀江に棄てさせた。そして、役人は善信尼等の尼を鞭打ちの刑に処した。その後、疱瘡で死ぬものが国に満ちた。老いも若きも「仏像を焼いたせいだろう」と密かに語り合った。天皇は蘇我馬子に「お前一人だけは仏法を行ってもよい。他の人は禁止する。」と仰せになり、三人の尼をお返しになった。馬子は大変喜び、新たに精舎を造り、仏像を迎え入れ供養した。

話は少し下るが、皇極4年(645年)6月の「乙巳の変」で、蘇我入鹿と蝦夷が討たれ、蘇我氏本宗家が滅び、皇極天皇の譲位により孝徳天皇が即位して、元号が大化と始めて制定された。その大化元年8月に孝徳天皇は使いを大寺(百済大寺)に遣わして僧尼に「欽明天皇の13年に、百済の聖明王が仏法を我が大倭に伝え奉った。この時、群臣は広めることを欲しなかった。しかし、蘇我稲目宿禰だけが仏法を信じた。天皇は蘇我稲目に詔にて仏法を信奉させた。敏達天皇の世に蘇我馬子宿禰は父の態度を敬い、釈迦の教えを重んじた。しかし、他の臣は信じなかったので、仏法は危うく滅びそうになった。そこで、天皇は馬子宿禰に詔にて信奉させた。推古天皇の世に、馬子宿禰は天皇のために丈六の繡像(繡帳)と丈六の銅像を造って、仏教を興隆し僧尼を敬った。・・・」と仰せになっている。

中大兄皇子・中臣鎌子らによって蘇我氏本宗家が滅ぼされてから、たった2ヶ月後の大化元年(645年)8月に、孝徳天皇は「欽明13年(552年)に仏教が伝わってから約100年の間に、仏教がこれほどまでに広がったのは蘇我稲目と蘇我馬子の功績である。」と賞賛している。朝廷が仏教を保護し、仏教によって国家の安泰を念願する鎮護国家(国家仏教)の道を歩み始めようとする孝徳天皇にとっては、逆賊蘇我氏といえども、仏教の礎を築いた蘇我稲目と馬子の功績は、称えずにはおられなかったのであろう。


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