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57-8.飛鳥時代の宮都は真神原 [57.蘇我氏の系譜と興亡]

Z129.石舞台古墳.png『日本書紀』推古34年(626年)の記事に「(蘇我馬子)大臣が薨じ、桃原墓に葬った。大臣は稻目宿禰の子で、性格は武略や辨才があり、三寶(仏法)を敬った。家は飛鳥河の傍にあり、庭の中に小さな池を開き、池の中に小嶋を築いた。それで時の人は嶋大臣といった。」とある。桃原墓は明日香村島庄にある石舞台古墳とする説がほぼ確定している。石舞台古墳の近くで、飛鳥川の傍にある島庄遺跡がある。島庄遺跡は橿原考古学研究所による発掘調査が度々行われ、平成16年には7世紀前期、中期、後期の3つの時代の大型の建物跡が見つかっている。前期の建物跡は、幅7.2m、長さ13m以上、柱の直径が約40cmもあり、この規模から蘇我馬子の邸宅跡ではないかと推測されている。なお、中期の建物跡は、皇極4年(645年)の「乙巳の変」の後の記事に「中大兄皇子が宮殿を嶋大臣の家に接して建て、中臣鎌足と密かに入鹿を殺す計画を練った。」とあることから中大兄皇子の邸宅、後期の建物跡は、天武天皇(672~686年)の皇太子であった草壁皇子の東宮「嶋宮」と考えられている

 

Z130.島庄遺跡方形池.pngまた、昭和47年に島庄遺跡から7世紀前期に造られた幅10mの堤を持つ一辺約42mの方形の池が見つかっている。池は7世紀前期に造られた幅10mの堤を持つ一辺約42mの方形の池で、池の底には径20cmほどの川原石が敷きつめられており、西北の護岸の石組は豪壮なものである。宣化天皇の檜隈入野宮があったとされる明日香村檜前の檜隈寺跡から1km南にある高取町の観覚寺遺跡は、3棟の朝鮮半島系の「大壁建物」の建物跡が見つかり、6世紀代の遺構とみられている。また、観覚寺遺跡からは石組みの人工池跡(6世紀)が出土している。東西約5m、南北約4m、深さ約40cmの方形で池の岸や縁は人頭大の石で組まれ、底にも石が敷かれていた。町教委は、蘇我馬子邸があったとされる明日香村の島庄遺跡(7世紀)で見つかった石組みの方形池跡(約42メートル四方)の原形とみている。蘇我馬子の邸宅を造ることにも倭漢(東漢)氏が関わっていると考える。

 

蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳(桃原墓)から南東約400mの明日香村阪田に都塚古墳がある。平成26年の調査では一辺が40mの方墳で、約30~60cmの石積みの階段が4段以上あり、国内に例がない階段ピラミッド状の形をしていることが分かった。段積みの石は拳から人頭大の川原石で、古墳の高さは7メートル以上と推定されている。埋葬施設は全長12mの両袖式横穴式石室があり、長さ2.2mの刳り抜き式家形石棺が収められていた。石棺の蓋には6個の縄掛式突起を持ち、その形状から古墳の築造年代は6世紀後半から6世紀末と比定され、蘇我馬子とされる石舞台古墳に近いことから、欽明31年(570年)に亡くなった蘇我稲目の墓でないかと考えられている。都塚古墳のルーツを高句麗の王陵・将軍塚古墳や百済の階段ピラミッド状の古墳に求める説があるが、都塚古墳の築造には、蘇我馬子の邸宅の方形池の石組みを行った、倭漢(東漢)氏の配下の渡来人が関わったのではないかと考える。

 

用明2年(587年)の記事に、「天皇の疱瘡が重くなり、亡くなられようとしたとき、鞍作多須奈が進み出て、『私は天皇のために出家して仏道を修め、丈六の仏像と寺とをお造りいたします。』と奏上した。・・・今、南淵(明日香村稲渕・坂田)の坂田寺にある木の丈六の仏像、脇侍の菩薩がこれである。」とある。明日香村坂田には坂田寺跡があり、奈良時代の金堂や回廊の礎石が出土しているが、創建当時の寺跡はまだ見つかっていない。明日香村稲渕・坂田は鞍作氏の本拠地で、「上桃原」の地である。都塚古墳・石舞台古墳・島庄遺跡(馬子邸宅)のある「下桃原」の地も、もともとは鞍作氏の本拠地であったが、馬子に譲られたのであろう。

 

なお、鞍作多須奈は鞍部村主司馬達等の子である。司馬達等は、蘇我馬子が仏教の師とした恵便を探し出し、娘の嶋を日本最初の尼僧(善信尼)として馬子に仕えさせた人物であり、雄略7年(470年)に飛鳥に居住した鞍部堅貴の子孫である。推古13年(605年)に丈六の仏像を造った鞍作鳥(鞍作止利)は司馬達等の孫にあたる。蘇我馬子は仏教においても、倭漢(東漢)氏と深く関わっている。

 

崇峻元年(588年)に、蘇我馬子は飛鳥の真神原の飛鳥衣織造の先祖の樹葉の家を壊して、法興寺(飛鳥寺)を建てている。この樹葉は雄略14年(477年)に呉からやって来て、飛鳥の檜隈野(明日香村呉原)に居住した飛鳥衣縫部の子孫であり、倭漢(東漢)氏の管轄下にあった。倭漢(東漢)氏は蘇我馬子の薦めもあって、真神原(飛鳥盆地:明日香村飛鳥・岡・川原)を朝廷の屯倉(屯家)として献上したと考える。推古天皇は真神原の入り口に豊浦宮(明日香村豊浦)・小墾田宮(明日香村雷)を造ったが、その後の天皇は、舒明天皇と斉明天皇が飛鳥岡本宮、皇極天皇と孝徳天皇が飛鳥板蓋宮、斉明天皇の飛鳥川原宮、天武天皇と持統天皇が飛鳥浄御原蓋宮と真神原(飛鳥盆地)に宮を設けている。

 

Z131.飛鳥盆地.png図Z131の地図に見られるように、飛鳥盆地(明日香村飛鳥・岡・川原)
には、
「伝飛鳥板蓋宮跡」の名称で国の史跡に指定された区域がある。この
地の発掘調査の結果、時期の異なる遺構が重なって存在することがわかり、
最上層が飛鳥浄御原宮と斉明天皇の後飛鳥岡本宮、その下層が蘇我入鹿暗殺
の舞台となった飛鳥板蓋宮、さらに最下層が舒明天皇の飛鳥岡本宮の遺構で
あると考えられた。694年に持統天皇が藤原京に遷都するまで、
真神原
6人の天皇が繰り返し宮を営んだ地である。飛鳥時代の宮都が
真神原になっ
たのは、蘇我馬子と
倭漢(東漢)氏の貢献によるところが大きい。


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