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57-7.蘇我稲目と倭漢(東漢)氏との関わり [57.蘇我氏の系譜と興亡]

蘇我氏の出自については、「57-3.蘇我氏には百済人の血が流れている」の節で述べたように、百済の官吏・木満致の血が流れている。そのいきさつは、応神3年(392年)に百済に遣わされた蘇我石川宿禰は、百済の接待役であった木満致と面識をもった。百済の直支王が倭国の人質となっていた397年から405年の9年間、木満致は付き人として倭国に滞在した。その間に木満致は蘇我石川宿禰の娘と出会い、子供が生まれ蘇我満知と名づけられた。木満致は直支王に従い妻子を残して帰国し、国政に携わった。420年直支王が亡くなり、幼い久爾辛が王となってからは、木満致は国政を執ったが、四面楚歌にあい窮地に陥っていた。その頃、中国の王朝と国交を開くことを模索していた仁徳天皇は、直支王が東晋の安帝から爵号を授けられたときの外交経験を持つ木満致を、外交顧問として招聘した。木満致としても、妻子の待つ倭国に行くことに拘りは無かった。そして、木満致は使者として421年に宋に朝貢した。『宋書』倭国伝には「永初二年(421年)に倭王・讃が朝貢し叙授を賜った。」とある。

 

一方、倭漢(東漢)氏の出自については、409年(仁徳27年)に倭漢直の先祖、阿知使主はその子の都加使主、並びに十七県の自分の党類(同族)を率いてやって来ている。そして、426年(仁徳44年)には、阿知使主と都加使主は呉に遣わされている。『宋書』倭国伝には「太祖の元嘉2年(425年)に、讃が司馬曹達を遣わして方物を献ず。」とある。「讃」は仁徳天皇であり、「司馬曹達」が阿知使主にあたる。420年から仁徳天皇に遣わされて宋に朝貢した木満致は、425年に宋に遣わされた阿知使主に、色々のアドバイスをしたことであろう。その後、木満致と阿知使主は付き合うようになり、蘇我氏と倭漢氏との親しい関係が生まれた。

 

Z125.稲目の関わった地.png蘇我稲目は倭漢氏の協力を得て曽我川・飛鳥川の流域の開発を行い、曽我(橿原市曽我町)の地を本拠地とし、曲川(橿原市曲川町)の地を安閑天皇に屯倉(屯家)として献上し、宣化元年(536年)に31歳の若さで大臣となった。蘇我稲目の出世は倭漢氏のお陰であった。蘇我稲目は倭漢氏に、本拠地である飛鳥の檜隈(明日香村檜前)の檜隈廬野を屯倉(屯家)として天皇に献上することを薦めた。倭漢氏の束ねる渡来人は、陶部・鞍部・画部・錦部・訳語・衣縫部の先進技術・文化を携えた人々であり、その生業は宮廷に関するものである。倭漢氏にとって、宮()が本拠地の傍にあるということは、朝廷での仕事が増え、メリットは大きい。蘇我稲目は倭漢氏の発展を考え、檜隈廬野の献上を薦めたのであった。

 

宣化天皇が檜隈廬野に宮()を遷してから、倭漢氏の朝廷での働きも多くなり、地位も高まった。欽明朝に東漢氏直糠児と東漢坂上直子麻呂が外国使臣の接待役として活躍したのは、蘇我稲目の推挙があったのであろう。また、欽明17年(556年)に蘇我稲目が高市郡身狹(橿原市見瀬町)に、大身狹屯倉と小身狹の屯倉を置くことが出来たのは、倭漢氏の協力あってのことである。蘇我稲目の時代、蘇我氏と倭漢(東漢)氏の結びつきはより強固なものとなった。


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