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57-5.蘇我氏台頭の背景は飛鳥周辺の開発 [57.蘇我氏の系譜と興亡]

蘇我氏の出自と台頭の背景については、色々の説があるが、まだ明らかにされていない。蘇我氏の出自については、前節「57-3.蘇我氏には百済人の血が流れている。」で、明らかにすることが出来た。蘇我氏台頭の背景、蘇我稲目が大臣になった背景を解き明かしてみる。そのヒントは、蘇我稲目が活躍した欽明朝にあると考えた。欽明13年に百済の聖明王が欽明天皇に仏像と経論を奉ったとき、蘇我稲目は天皇からそれらを授かり、仏像を小墾田の自宅に安置し、向原の家を寺としている。小墾田は大和国高市郡雷(明日香村雷)に、向原は大和国高市郡豊浦(明日香村豊浦)に比定されている。また、欽明23年、大将軍大伴連狭手彦が数万の兵を率いて高麗を撃破して戦利品を持ち帰り、七織帳を天皇に奉り、鎧や金飾の太刀などと共に、美女の媛と従女を蘇我稻目宿禰大臣に送っている。蘇我稻目はこの二人召して、妻として媛と従女を軽の曲殿に住まわせている。軽は大和国高市郡大軽(橿原市大軽町)に比定されており、明日香村豊浦の南隣にある。推古天皇が豊浦宮・小墾田宮を建てていることからすると、これらの地は蘇我稲目の領地ではなく、蘇我稲目が屯倉(屯家)として天皇に献上し、自分の管轄化に置いていたように思える。


Z125.稲目の関わった地.png明17年に蘇我稲目が倭國の高市郡に、韓人を田部とした大身狹の屯倉と高麗人を田部とした小身狹の屯倉を設置している。蘇我氏は百済の官史・木満致を先祖に持つこともあり、渡来人を束ねる立場にあったと思われる。継体朝の終わり頃、蘇我稲目は渡来人を使って奈良盆地の南部を流れる曽我川・飛鳥川の改修・排水・灌漑工事を行い、両河川に挟まれた大和国高市郡曽我(橿原市曽我町)の地、曽我川流域の大和国高市郡曲川(橿原市曲川町)の地、飛鳥川流域の大和国高市郡雷(明日香村雷)・豊浦(明日香村豊浦)の地を開発した。曽我の地を蘇我稲目の本拠地となし、曲川と雷・豊浦の地を屯倉(屯家)として安閑天皇に献上した。安閑天皇は曲川に勾金橋宮を建て、雷の地を妃・紗手媛に小墾田屯倉として賜っている。


Z126.蘇我稲目と馬子.png平安時代に編纂された『扶桑略記』には、蘇我稲目は享年65歳、蘇我馬子は享年76歳としてあり、それをもとに二人の経歴を『日本書紀』に基づいて表126に示した。蘇我稲目は宣化元年(536年)に31歳の若さで大臣となっている。蘇我稲目が若くして大臣に成り得たのは曽我川・飛鳥川の改修・排水・灌漑工事で開発した曲川・雷・豊浦・大軽の地を屯倉(屯家)として天皇に献上し、その屯倉(屯家)の管理・監督を行ったからだと思える。また、蘇我馬子が敏達元年(572年)に22歳で大臣に就任したのは、欽明天皇の妃で七男六女を生んだ堅塩媛(蘇我稲目の娘)が、蘇我氏の繁栄を願い、弟の馬子を大臣に推挙したのであろう。
蘇我氏が蘇我稲目の時代に突然に台頭した背景は、稲目が飛鳥周辺の開発を行い、朝廷の屯倉(屯家)として献上したことにあると思われる。



 


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