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56-5.葛城氏の系譜とその墳墓 [56.葛城氏の系譜と興亡]

武内宿禰の本拠地は葛城地域の南半分(葛上郡)であって、葛上郡にある室宮山古墳を武内宿禰の墳墓と比定した。武内宿禰の長男である葛城襲津彦は武内宿禰の本拠地を引き継いだ。ただ、葛城襲津彦は57歳(382年)のとき、新羅を討伐するべく派遣されたが、新羅の差出した美女に籠絡され、天皇の命令に背いため葛城の地に帰ることがなかった。そのため、葛城襲津彦の墳墓は葛城の地には無い。

Z110.葛城大型古墳編年.png葛城襲津彦が父・武内宿禰より引き継いだ葛上郡の地は、襲津彦の長男(玉田宿禰の父)に委ねられた。御所市玉手にある満願寺前は「玉田」と称しされており、玉田宿禰の居住地であったと言われている。御所市玉手から玉手山(165m)を挟んだ反対の御所市柏原に、墳丘長さ150mの前方後円墳、掖上鑵子塚(わきがみかんすづか)古墳がある。周濠が水田となって周囲を巡っている。古墳の形状、出土遺物などから、築造年代は室宮山古墳よりやや後の、世紀前半でも中頃に近いころと考えられている。私の編年では、円筒埴輪Ⅳ式の存在から築造年代は400~479年としているが、江戸時代の記録から長持形石棺の存在が類推されることを考慮にいれると、400年~469年となる。宮山古墳と掖上鑵子塚古墳の両古墳から出土した形象埴輪には、直弧文やその他の文様に共通性がみられるそうだ。

掖上鑵子塚古墳を葛城襲津彦の長男・玉田宿禰の父の墓に比定する。448年(允恭
年)に、玉田宿禰は殯の職務を怠り葛城で酒宴をしていたのを、葛城に遣わされた尾張連吾襲に見つかり、その発覚を恐れて吾襲を殺したことにより討伐されている。この事件により、葛城地域の南半分(葛上郡)の地は大和王権に没収され、王権の直轄領、葛城縣となった。もちろん、玉田宿禰が討伐される448年以前に、玉田宿禰の父の墳墓・掖上鑵子塚古墳は築造されていた。築造したのは玉田宿禰であろう。

Z109.葛城の大型古墳.png葛城襲津彦が領有した母・葛比売の出自の葛城国造の地、葛城北半分(葛下郡・忍海郡)は次男の葦田宿禰に委ねられた。北葛城郡王寺町・上牧町には葦田池とか葦田原と呼ばれていた地名がある。万葉集の柿本人麻呂の歌に「明日からは 若菜摘まむと 片岡の あしたの原は 今日ぞ焼くめる」がある。「あしたの原」は「明日の原」と「葦田の原」の掛詞である。「葦田の原」とは、葛城山から馬見丘陵にはさまれた葛下川流域一帯をさしていると言われている。現王寺町の町名の起源と考えられている「片岡王寺」は、現在では放光寺として存続しているが、鎌倉時代に成立した『放光寺古今縁起』には「葦田池」が出てくる。葦田池は推古15年(607年)に大和国に造られた4つのため池(肩岡池、高市池、藤原池、菅原池)の一つ、肩岡池のことであり、芦田池として王寺市本町に現存する。

Z120.川合大塚山古墳.png芦田池の東3.5kmの河合町川合に川合大塚山古墳がある。墳丘長193mの前方後円墳で、世紀中頃~後半の築造と推定され、周濠があったことが周囲を巡っている水田に痕跡を残しており、同時期では奈良盆地内で最大級の古墳である。私の編年では、円筒埴輪Ⅳ式の存在から築造年代は、掖上鑵子塚古墳と同じ400~479年としている。川合大塚山古墳を葦田宿禰の墓と比定する。葦田宿禰の誕生は360年から375年で、息子の円大臣が生まれたのが399年から411年と計算しており、古墳の築造年代との齟齬はない。葦田宿禰の姉妹には仁徳天皇の皇后・磐之媛がおり、娘の黒姫は履中天皇の皇后となり、息子の葛城円大臣は履中天皇・允恭天皇・安康天皇に仕え国政を担っている。同時期では奈良盆地内で最大級の古墳に葬られてもおかしくない。もちろん、古墳は円大臣が眉輪王をかくまい焼き殺された463年前には葦田宿禰の墓・川合大塚山古墳は築造されていた。築造したのは円大臣であろう。

463年(安康3年)に、円大臣は父の仇に報いるために安康天皇を殺害した眉輪王と、その共謀を疑われた坂合黒彦皇子(雄略天皇の同母兄)を自宅にかくまった。雄略天皇に葛城領地7ヶ所と娘の韓姫を献上して許しを乞うたが許されず、円大臣・黒彦皇子・眉輪王は焼き殺されている。『日本書紀』は「そのとき、坂合部連贄宿禰が皇子の屍を抱いて焼き殺された。その舎人どもは、焼け跡を片付けたが、ついに骨を区別することが出来なかった。一つの棺に入れて、新漢の槻本の南の丘に合わせ葬る」とある。「皇子の屍を抱いて焼き殺された」ことからすると、黒彦皇子は焼け死ぬ前に既に死んでいた。史実は、天皇の許しが得られないと知った円大臣は、眉輪王と黒彦皇子の死の介添えをし、自ら家に火を放ち、妻と共に自殺したと想像する。『古事記』では、円大臣は願いにより眉輪王を刺殺し、自分も首を斬って死んだとしている。新漢の槻本の南の丘に葬られたのは、皇子と皇子の屍を抱いて焼け死んだ坂合部連贄宿禰であろう。

葛城円大臣は葛城領地7ヶ所と娘の韓姫を献上することと、自らの命を差し出すことを条件として、葛城氏の安堵を得たのであろう。464年
(雄略元年)に、韓媛は雄略天皇の妃となっている。葛城領地7ヶ所は後世の忍海郡と葛下郡南部と考える。『古事記』には献上したのは5村で、「五村の屯倉は、今の葛城の五村の苑人なり」とある。『倭名類聚抄』には忍海郡園人郷が出てくる。また、大和国の六縣に設けられた御県神社の一つである葛城御県神社は、葛城市新庄町に在り葛下郡に属していた。葛下郡の南部の一部は葛城縣であったと考えられる。大和王権は葛上郡と忍海郡、そして葛下郡の南部の領域を葛城縣にすることが出来たのである。葛下郡(除く南部)の地域は、円大臣の息子あるいは兄弟の蟻臣によって引き継がれた。
Z121.狐井城山古墳.png
奈良県香芝市狐井にある狐井城山古墳は、全長が140mの前方後円墳でただ、長持石棺と家形石棺の蓋石が狐井城山古墳の前方部東北隅に外堤に接して流れる灌漑水路(初田川)の中から昭和44年に発見され、狐井城山古墳のものと推測されている。狐井城山古墳は戦国時代に土豪の岡氏が城砦(狐井塁)として使っていたようであり、その時に石棺が掘り出されたのであろう。長持石棺の蓋石は竜山石(兵庫県)で造られており、長さ約2
.7m、幅1.3mで蒲鉾形をしているのが特徴で、通常の長持形石棺より舟形石棺に近い形状で、このような特異な形態はほかに類例がないそうだ。

狐井城山古墳の築造年代は5世紀末から6世紀前半とされている。私は円筒埴輪Ⅴ型式(470~)と長持式石棺(340~469)から古墳年代は465~475年と比定している。私が調査した2248基の前方後円
()墳の中で、円筒埴輪Ⅴ型式が出土した古墳は166基ある。その中で長持形石棺が出土した古墳は狐井城山古墳1基のみである。ちなみに、舟形石棺は7基、家形石棺は16基の古墳から出土している。狐井城山古墳からは長持形石棺(340~469)と家形石棺(400~)が同時に見つかっていることからしても、長持形石棺が造られる終わりの時期と判断できる。狐井城山古墳(465~475年)を463年に亡くなった、葛城円大臣とその妻の墳墓に比定する。

『新撰姓氏録』で武内宿禰とその息子を始祖とするのは65氏族ある。その内、葛城襲津彦を始祖と仰ぐのは12氏族で最も多い。これらからすると、葛城氏は滅亡していなかったことになる。雄略天皇亡き後、円大臣の娘・韓媛が産んだ皇子が清寧天皇となり、蟻臣の娘・荑媛が産んだ皇子が顕宗天皇・仁賢天皇となったこともあり、葛城氏は葛下郡(除く南部)で生き延びたのである。


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