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54-6.室宮山古墳は武内宿禰の墳墓 [55.武内宿禰は実在した]

Z107.室宮山古墳.png

奈良県御所市大字室に室宮山古墳がある。墳丘長238mの全国で第6位の規模の前方後円墳で、葛城地域では最も大きな古墳である。室宮山古墳の年代は370~389年と編年した。年代の決め手は円筒埴輪Ⅲ式(370~409年)と壺形埴輪(260~389年)である。その他にも三角縁神獣鏡C段階(270~399年)、琴柱形石製品(310~399年)、三角板革綴短甲(360~469年)の副葬品があり、室宮山古墳の年代は370年~389年の年代と確定出来る。

室宮山古墳は通説では葛城襲津彦の墳墓と比定されている。それは葛城襲津彦の実在が、『百済記』によりが確かめられるからであろう。武内宿禰の墳墓ではないかとの説もあるが、武内宿禰は伝説上の人物と見なされており、その墳墓は存在しないのである。私は、武内宿禰は実在していたと考える。また、允恭
年(448年)の記事には、「葛城襲津彦の孫である玉田宿禰が殯(もがり)の職務を怠り葛城で酒宴をしていた。それを葛城に遣わされた尾張連吾襲に見つかり、その発覚を恐れて吾襲を殺し、武内宿禰の墓域に逃げ込んだ。」とある。この葛城の武内宿禰の墓こそ室宮山古墳と考える。武内宿禰が何時亡くなったかは明確ではないが、371年までは生存していたことは、『日本書紀』の記事と「縮900年表」から確認できる。武内宿禰の墓を室宮山古墳としても、室宮山古墳の年代の370年~389年と齟齬はない。

Z108.老司古墳.png葛城襲津彦の亡くなった年は明確でないが、『百済記』に書かれてあるように、382年(壬午)に新羅に派遣され、しばらくしてから密かに帰国し、石穴に入って亡くなった時期は、室宮山古墳の年代(370~389年)に近いことは確かである。しかし、天皇の命に背き密かに帰国した者が、葛城の地域で最も大きい室宮山古墳に葬られていることは考え難い。「51-5.葛城襲津彦は美女に籠絡された」に記したように、「ひそかに帰国し隠れていた」のは、朝鮮半島との窓口である筑紫であり、「石穴に入って死んだ」は、横穴式石室に葬られたと解釈して、私は、葛城襲津彦の墓は博多平野にある九州型横穴式石室を持つ老司古墳(古墳年代:385~395年)に比定している。


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