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55-5.葛城襲津彦は武内宿禰の長男 [55.武内宿禰は実在した]

『古事記』は葛城襲津彦を建内宿禰の子としているが、『日本書紀』は葛城襲津彦を武内宿禰の息子であるとは書いていない。しかし、448年(允恭5年)の記事には、「葛城襲津彦の孫である玉田宿禰は反正天皇の殯宮大夫の役を命じられていたにも関わらず、地震があった七月十四日の夜に殯宮にいなかった。これを知った允恭天皇は尾張連吾襲を葛城に遣わした。すると玉田宿禰は男女を集めて酒宴を行なっていた。吾襲は事の次第を宿禰に伝えた。宿禰は事の発覚を恐れて吾襲を殺し、武内宿禰の墓域に逃げ込んだ。」とある。この記事によれば、武内宿禰の墳墓が葛城にあることが明白で、葛城襲津彦が武内宿禰の息子であり、しかも長男であることが予想される。葛城襲津彦の誕生の年は、襲津彦の足跡を辿ることにより計算出来る。表Z103は、神功5年(351年)に葛城襲津彦が新羅に派遣された時の年齢を23歳から57歳と仮定して、他の記事の年に何歳であったかを計算している。

Z103.葛城襲津彦の足跡.png


『日本書紀』の
神功皇后46年から65年までの記事は、百済の肖古王・貴須王・枕流王・辰斯王が登場しており、編年を干支2廻り、120年下らせば、『三国史記』の編年と同じになることが分っている。神功62年を382年と編年しているのはこのためである。神功62年の記事の後に『百済記』からの引用文がある。「百済記に云う、壬午の年に新羅が貴国(倭国)に朝貢しなかったので、貴国は沙至比跪(さちひこ)を遣わして討たせた。沙至比跪は新羅の差出した美女を受け取り、反対に加羅を討った。加羅の王は百済に逃げ倭国に来て、その事を訴えた。天皇は大いに怒られ、木羅斤資を加羅に遣わして、国を回復させたという。一説には、沙至比跪は天皇の怒りを知り、ひそかに帰国し隠れていた。皇宮に仕えている妹に、天皇の怒りが解けたかどうか探らせた。妹は『今日の夢に沙至比跪を見ました』と天皇に申し上げた。天皇は「沙至比跪はなぜ来たのか」と怒られた。妹は天皇の言葉を伝えた。沙至比跪は許されないと知り、石穴に入って死んだ。」とある。

歴史学者は『百済記』から、葛城襲津彦(沙至比跪)は実在が確認できる最古の人物であるとして、天皇に仕えた沙至比跪の妹を、『古事記』の応神記にかかれている、応神天皇の十人の妃の一人である葛城野伊呂売
(ののいろめ)として解釈している。なお、孝元記には建内宿禰の七男二女の中に、怒能伊呂比売(ののいろひめ)があり、葛城野伊呂売と同一人物とみて、葛城長江曽都毘古の妹と見なしている。古代において「妹」は娘であるから、天皇に仕えた葛城襲津彦の妹(娘)は、仁徳天皇の皇后の磐之媛である。「縮900年表」で見ると、382年は仁徳2年にあたる。

仁徳41年(410年)の記事に登場する襲津彦を葛城襲津彦と考えると、襲津彦の年齢が79歳以上であり、違和感を覚える。仁徳41年の記事は、
「紀角宿禰を百済に遣わし、国郡の境をわけて郷土の産物を録した。このとき、百済の王の一族である酒君が、無礼であったので、紀角宿禰は百済王を責めた。そこで、百済の王は鉄の鎖で酒君を縛って、襲津彦に従わせて天皇に進上した。それで酒君は日本に来て、石川錦織首許呂斯の家に逃げ隠れた。久しくしてから天皇はその罪を許された。」とある。この記事に出てくる襲津彦は百済の臣下のように見受けられ、神功62年(382年)に新羅討伐に行って帰国しなかった葛城襲津彦ではないように思える。『百済記』の「ひそかに帰国し隠れていた」とは、帰国の仕方が大きく異なっている。

話は飛ぶが、欽明2年に百済の官人・紀臣奈率麻沙についての記事がある。
「紀臣奈率麻沙は、おそらく紀臣が韓の婦人を娶って生んだのであろう。百済に留まって奈率(百済の官位)となったものである。」とある。紀臣奈率麻沙以外にも、許勢奈率奇麻・物部奈率奇非らが百済の官人として登場している。百済・任那・新羅に渡った倭人が韓の婦人を娶って生んだ子を韓子と呼んでいるが、仁徳41年の記事にある襲津彦は、葛城襲津彦が韓の婦人を娶って生まれた韓子であろう。367年に加羅に渡り3年間帰国しなかった時に生まれた子であれば44歳若であろうし、382年に新羅の差出した美女との間に出来た子であれば29歳若であろう。百済の官人となった数奇な人生が伺える。

Z104.武内宿禰と襲津彦.png百済や新羅に出かけ交渉や戦をするのは23歳から57歳位までとする仮定のもとで、葛城襲津彦が新羅討伐に派遣された351年(神功5年)と382年(神功62年)の年齢を照らし合わせると、表Z104に示すように、両者が条件を満足するのは、351年の新羅討伐のときの襲津彦の年齢は、23歳から26歳である。襲津彦の誕生の年は326年から329年となり、武内宿禰(誕生302年)が25歳から28歳のときに生まれた事になる。葛城襲津彦は武内宿禰の長男である可能性が高い。

Z105.磐之媛.pngなお、襲津彦の娘・磐之媛が仁徳天皇の皇后となったのは、382年(仁徳2年)である。そのとき、仁徳天皇の年齢は38歳である。仁徳天皇の年齢からすれば、磐之媛を娶ったのは皇太子の時代であったかも知れない。大鷦鷯皇子の年齢から磐之媛を娶った年を算出し、磐之媛の嫁いだ年齢を25歳(±5歳)として、磐之媛誕生の年の襲津彦の年齢を求め表Z105にした。大鷦鷯皇子が30歳以降に磐之媛を娶っていたならば、葛城襲津彦と磐之媛の親子関係は成り立つ。


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