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55-4.武内宿禰の息子、平群木菟宿禰の検証 [55.武内宿禰は実在した]

『日本書紀』では武内宿禰の子供については、平群木菟宿禰のみの記載しかない。仁徳元年(381年)の記事には、「応神天皇の御子(仁徳天皇)が生まれたとき産殿に木菟(ミミズク)が入ってきた。同じ日に生まれた武内宿禰の子の産殿には鷦鷯(ミソサザイ)が入ってきた。これは吉兆の印なので、鳥の名を相互に交換して子供の名としようと、応神天皇が仰せられた。太子は大鷦鷯(おおさざき)皇子、大臣の子は木菟(つく)宿禰と名付けられた。木菟宿禰は平群臣の始祖である。」とあり、この記事より平群木菟宿禰は武内宿禰の息子で、仁徳天皇と同じ日に誕生したことが分る。

Z99.群木菟宿禰検証.png応神13年(366年)に応神天皇は、お召しになろうとしていた髪長媛に、大鷦鷯皇子(仁徳天皇)が恋心を抱いていることを知り、二人を結婚させようと考えられた。天皇は二人を宴に招き歌を詠って、その意向を伝えた。大鷦鷯皇子は髪長媛を賜ることが出来ることを喜び、「天皇のお心づかいを知らないで、もう二人は同衾していました」と返歌を奉っている。この年の大鷦鷯皇子の年齢を20歳頃だと考える。仁徳天皇の誕生は347年となる。これだと仁徳天皇は431年に85歳で崩御した事になり辻褄は合っている。平群木菟宿禰の誕生は、仁徳天皇と同じ347年で、武内宿禰(誕生302年)が46歳のときの子供となり、『日本書紀』が記載している、武内宿禰と平群木菟宿禰の親子関係が成り立つ。これらを表Z99に示した。

応神16年(369年)に、平群木菟宿禰は的戸田宿禰と共に加羅に遣わされて、新羅の王から百済の弓月君の人夫と、その奪還のため加羅に遣わされ3年間帰国していなかった葛城襲津彦を連れ戻している。この時の平群木菟宿禰の年齢は、誕生の年347年から計算すると23歳であり、海外(朝鮮半島)への派遣は23歳から57歳までの仮定は満足している。しかしながら、履中2年(433年)には、平群木菟宿禰・蘇賀滿智宿禰・物部伊莒弗大連・円大使主が共に国事を執っている。この時の平群木菟宿禰の年齢は87歳で、国政を執る年齢ではない。平群木菟宿禰の誕生の347年が怪しくなる。

鳥Z100.平群眞.png平群木菟宿禰の息子とされている平群眞鳥は、雄略天皇の元年(464年)と清寧天皇の元年(487年)に大臣に任命され、仁賢11年(505年)に仁賢天皇が崩御された年、平群眞鳥大臣は国政を専らにしたとして大伴金村に討たれている。平群眞鳥は仁賢元年にも大臣に就任していたのであろう。雄略天皇元年に平群眞鳥が大臣になった時の年齢を基にして、清寧元年・仁賢元年の大臣就任の年齢を計算して表Z100にまとめた。これらからすると、平群眞鳥が始めて大臣になった464年は23歳から30歳であり、平群眞鳥の誕生は435年から442年であったと考えられる。平群木菟宿禰の誕生は仁徳天皇と同じ347年とすると、平群眞鳥が誕生のとき、平群木菟宿禰の年齢は89歳から96歳となり、平群木菟宿禰と平群眞鳥の親子関係はあり得ないことになる。

Z101.平群眞鳥は孫.png履中2年(433年)の記事に出てくる国政を執った平群木菟宿禰は、平群木菟宿禰の息子木菟息子宿禰と表記)と考えると、平群木菟宿禰と木菟息子宿禰の親子関係と、木菟息子宿禰と平群眞鳥の親子関係は成り立つであろうか。433年に国政を執った菟息子宿禰の年齢を基にして、菟息子宿禰の誕生の年を求めた。そして菟息子宿禰の誕生の年の平群木菟宿禰(誕生347年)の年齢と、平群眞鳥の誕生の年の菟息子宿禰の年齢を求め表Z101に表した。すると、菟息子宿禰の誕生が394年から399年であれば、平群木菟宿禰と木菟息子宿禰、木菟息子宿禰と平群眞鳥の親子関係は成り立つことが分った。

平群氏の系譜(誕生年:父親の年齢)は、武内宿禰(誕生302年)→平群木菟宿禰(347年:46歳)→
木菟息子宿禰(394~399年:48~53歳)→平群眞鳥(435~442年:37~49歳)になる。平群木菟宿禰は369年(応神16年)に23歳で加羅へ遣わされ、木菟息子宿禰は433年(履中2年)に35歳から40歳で国政を担い、平群眞鳥は464年(雄略元年)に23~30歳で初めて大臣となり、487年(清寧元年)に46~53歳で大臣に再任され、顕宗天皇・仁賢天皇とも大臣を務めたが、505年(仁賢11年)の64~71歳のとき、大伴金村に討たれた。平群木菟宿禰と平群眞鳥の間に1世代あると仮定すると、平群氏に関して、『日本書紀』と「縮900年表」は一致する。平群木菟宿禰は武内宿禰が46歳のときに生まれた息子である。

これまでに、武内宿禰と同じ日に生まれた成務天皇、平群木菟宿禰と同じ日に生まれた仁徳天皇の誕生の年を定めることが出来た。そこで、崇神天皇から履中天皇までの誕生の年を『日本書紀』と「縮900年表」から求めた。崇神天皇の誕生の年は、「50
-4.13歳の女王・壱与は崇神天皇」で説明したように、魏志倭人伝より正始8年(247年)頃に卑弥呼が亡くなり、その数年後に13歳の壱与(崇神天皇)が女王となっていることから定めた。景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・履中天皇については、各天皇の即位前紀に皇太子になった年と、その時の年齢が記載してあり、「縮900年表」に照らし合わせれば、誕生の年を決めることが出来る。仁徳天皇についてこの節の初めに書いた通り、大鷦鷯皇子(仁徳天皇)が応神天皇より髪長媛を賜った年を20歳として計算した。なお、垂仁天皇については母親・崇神天皇の年齢を考慮して定めた。なお、垂仁前紀には皇太子になった年と、その時の年齢が記載してあるが、これは採用しなかった。応神天皇については、仲哀天皇の年齢を考慮して定めた。したがって、神功皇后が誉田別皇子(応神天皇)を身ごもったまま新羅征伐をしたというのは、新羅征伐は史実であるが、「誉田別皇子を身ごもったまま」というのは作られた説話である。この時代、天皇の継承は崩御されてから行われている。前代の天皇が長生きされた場合、次の天皇が即位される時には年配となっている。『日本書紀』は皇后を娶った年を即位後に記載しているが、それは皇后になった年であり、それ以前に皇子は生まれている。Z102に示すように、「縮900年表」は天皇の誕生の年においても、齟齬が興らないよう定めることが出来た。
Z102.天皇誕生年.png


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