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55-2.武内宿禰は実在し、誕生は302年 [55.武内宿禰は実在した]

仁徳紀で武内宿禰の名前が出てくるのは、仁徳元年と仁徳50年である。仁徳50年の「たまきはる 内の朝臣」で始まる歌は、「朝臣」という言葉より、八色姓で朝臣の姓が出来た以後に作られたことがわかり、仁徳50年まで、武内宿禰の年齢が引き延ばされていることが分る。仁徳元年(381年)の記事は、「応神天皇の御子(仁徳天皇)が生まれたとき産殿に木菟(ミミズク)が入ってきた。同じ日に生まれた武内宿禰の子の産殿には鷦鷯(ミソサザイ)が入ってきた。これは吉兆の印なので、鳥の名を相互に交換して子供の名としようと、応神天皇が仰せられた。太子は大鷦鷯(おおさざき)皇子、大臣の子は木菟(つく)宿禰と名付けられた。木菟宿禰は平群臣の始祖である。」とある。この話は応神天皇の時代の話であり、仁徳天皇の時代に武内宿禰が生存していたとは言えない。


応神紀で武
宿禰の名前が出てくる最後の記事は、応神9年(362年)の武宿禰に謀反の嫌疑がかけられた記事である。武宿禰を筑紫に遣わして百姓(人民)を監察させた。その時、武宿禰の弟の甘美宿禰が兄を廃しようとして、天皇に「武宿禰は常に天下望む野心があります。今筑紫において、筑紫を割いて、三韓を招き、自分に従わせれば、天下が取れると密に謀っていると讒言した。そこで天皇はただちに使いを遣わして、武宿禰を殺すことを命じた。その時、武内宿禰に容姿が似ていた壹伎直の祖の眞根子が身代わりとなって自決した。武宿禰は筑紫を脱出し、朝廷に参上して罪の無いことを弁明した。天皇は武宿禰と甘美宿禰とを対決させて問われたが、決着がつかなかった。天皇の勅命により、探湯が行われて武宿禰が勝った。武宿禰は甘美宿禰を殺そうとしたが、天皇の勅命で許され、紀伊直等の先祖に賜ったとある。武宿禰が362年には生存していたことは確かである。

神功皇后46年から65年までの記事は、百済の肖古王・貴須王・枕流王・辰斯王が登場しており、
『日本書紀』の編年を干支2廻り、120年下らせば、正規の編年になることが分っている。この間に武内宿禰の名が出てくるのは神功47年(367年)と神功51年(371年)で、両者とも応神天皇の時代のことになる。ちなみに、神功52年(372年)には百済の肖古王から七枝刀一口と七子鏡一面、および種々の重宝が献上されている。

371年に武内宿禰が生存していたとして、武内宿禰の年齢を計算してみる。成務3年の記事には、「成務天皇と武内宿禰は同じ日に生まれた」とある。成務前紀には、「成務天皇は景行天皇46年(325年)に24歳で皇太子となった。」とあることからすると、成務天皇と武内宿禰が生まれたのは302年となり、景行天皇の即位の2年前である。成務天皇の母の八坂入姫は景行4年(307年)に妃とされたと記載されており、成務天皇の誕生と矛盾しているが、即位前に妃としていたのを、
『日本書紀』の述作者が、皇后を娶った後に妃を召されたように書いたのであろう。武内宿禰の誕生が302年とすれば、371年で丁度70歳であり、年齢からして実在の人物であると言える。武内宿禰は302年に誕生し、325年(景行52年)に24歳で棟梁之臣となって以降、大臣として景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・神功皇后・応神天皇に仕え活躍した。

歴史上の人物で、肖像として一番長く使われた紙幣は武内宿禰で、1889年(明治22年)5月1日から1958年(昭和33年)10月1日まで発行され、法律上は現在も使用できる。武内宿禰はお札の中で128年以上も生きている。

 A100-2.武内宿禰紙幣.png


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