SSブログ

55-1.ヤマト王権の中枢を担った武内宿禰 [55.武内宿禰は実在した]

応神天皇以前のヤマト王権(古墳時代前期、3世紀中頃から4世紀末)は大和国を盟主国とする連合国家であり、仁徳天皇の時代になって大王(天皇)を頂点とする統一国家が誕生した。それを私は大和王権(古墳時代中期以降、5世紀以降)と表現している。大和王権の中枢で執政を担ったのが、大化の改新前代は大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)であった。表Z96に、『日本書紀』に記載されている大臣大連の人物名を示した。黄色は天皇が即位したとき、「為大臣」「為大連」と正式に任命を受けたものであり、(氏名)は任命を受けてないが大臣大連と称されている人物で、[氏名]は大臣大連の地位ではないが国政に携わったが人物である。大臣大連は大王(天皇)を補佐して政務に携わる役職であるが、大臣は姓(かばね)が臣(おみ)である氏族から選ばれ、大連は姓が連(むらじ)である氏族から選ばれている。

Z96.大臣・大連.png


『日本書紀』で「大臣」の文字が登場する初見は、成務天皇3年の記事で「武内宿禰を大臣と為す。」とある。しかし、それ以前の景行51年には「武
宿禰に命じて、棟梁之臣と為す。」とある。「棟梁之臣」とは、棟木と梁のように重圧に耐える臣、すなわち大臣のことであり、武内宿禰は景行天皇の時代から「大臣」に相当する役職に付いていた。『日本書紀』の文章は時代考証されていないので、成務朝に「大臣」と名付けた役職が存在したとは言えないが、「大臣」に相当する役職があったと考える。しかし、武内宿禰宿は景行天皇・成務天皇・仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・仁徳天皇に仕えた人物であるが、『日本書紀』の通りに計算すると武内宿禰の年齢が265歳余りになり、伝説上の人物として考えられている。「縮900年表」で計算してみても、113歳余りとなり実在の可能性が無いといえる。

『日本書紀』で武内宿禰が最後に登場するのは、仁徳50年(413年)の記事で、「河内の人が『茨田堤に雁が子を産みました。』と奏上した。天皇は『朝廷に仕える武内宿禰よ。あなたこそこの世の長生きの人だ。あなたこそ国一番の長寿の人だ。だから尋ねるのだが、この倭の国で、雁が子を産むとあなたはお聞きですか。』と歌を詠まれて、武内宿禰に問われた。武内宿禰は『わが大君が、私にお尋ねになるのはもっともなことですが、倭の国では雁が産卵することは、私は聞いておりません。』と歌を返した。」とある。

この歌謡は万葉仮名で書かれており、天皇が詠まれた歌の出だしの原文は「多莽耆破屢 宇知能阿曾」で、訓下し文は「たまきはる 内の朝臣」である。「たまきはる」は「内」にかかる枕詞である。「阿曾」が「朝臣」を示す用例は、万葉集に3首ある。「池田乃阿曽(池田の朝臣)」(
16/3841)、「穂積乃阿曽(穂積の朝臣)」(16/3842)、「平群乃阿曽(平群の朝臣)」(16/3843)である。

『日本書紀』で「朝臣」の文字が登場する初見は、天武13年(684年)の八色姓の詔である。『日本書紀』は時代考証をしていないため、本文には後世の用語を用いることが多い。しかし、『日本書紀』に挿入されている歌謡は伝承そのものであり、万葉仮名で書かれているのもそのためである。そのため、歌謡には『日本書紀』の述作者が後世の用語を差し挟む余地はない。後世の用語があるとしたら、その歌謡はその用語が使われた時代に詠われたものである。そう考えると、仁徳50年の歌謡は、八色姓で朝臣の姓が出来た以後に作られたことがわかる。仁徳50年(413年)に茨田堤に雁が子を産んだことは史実であろうが、「たまきはる 内の朝臣」で始まる歌謡は、その時に詠われた歌ではないとすることが出来る。武内宿禰が実在したとすれば、その年齢は引き延ばされている。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。