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54-9.出雲出土の大刀銘「額田部臣」を解く [54.『日本書紀』から探るウジとカバネの史実]

Z93.額田寺伽藍並条里図.png

奈良県大和郡山市額田部寺町にある額安寺(額田寺)には、奈良時代の伽藍や寺領の景観を描いた、「大和国額田寺伽藍並条里図」が伝わっており、現在国宝となっている。額田寺はこの地域を本拠地とした額田部氏の氏寺であった。「伽藍並条里図」本図には多くの墓が描かれてあり、「船墓 額田部宿祢先祖」と注記されているものもある。「舟墓」の絵は明らかに前方後円墳の形をしており、額田部町北町に舟墓古墳として現存している。「伽藍並条里図」には、額田部町南町にある額田部狐塚古墳も描かれている。この古墳からは、画文帯二神二獣鏡・馬具・挂甲・銀環・須恵器が出土し、古墳後期・6世紀中頃の古墳とされている。朝顔形埴輪の型式がⅣ式であること、横穴式石室ではないことから6世紀中頃と比定するのには違和感を覚え、古墳年代比定のシステムを使って年代を調べた。すると額田部狐塚古墳は、
朝顔形埴輪Ⅳ式(400~479
)と銀環(370~399,470~
の組合せにより、古墳年代は460~479年と出た。

平安時代初期(弘仁
年:815年)に編纂された『新撰姓氏録』には、大和国の額田部河田連の記事には、「允恭天皇の御世。額田馬を献ずる。天皇は『この馬の額(ひたい)は田町の如し』とおおせになり、よって額田連の姓を賜る也」とある。同様の話が左京の額田部湯坐(ゆえ)連の記事にも、「允恭天皇の御世。薩摩国に遣わされ、隼人を平らぐ。復奏の日に御馬一匹を献ずる。額(ひたい)に町形の廻毛あり。天皇これを嘉こび、額田部の姓を賜る也。」とある。額田部河田連の記事は「額田連」、額田部湯坐連の記事は「額田部」、両方合わせれば「額田部連」である。允恭天皇は443年と451年に宋に貢献した倭王済に比定される天皇である。「縮900年表」によれば、允恭天皇の治政は442年から460年である。これらより、額田部狐塚古墳(460~479年)の被葬者は、允恭天皇から額田部連の姓を賜った、額田部河田連の先祖ではないかと考える。

『日本書紀』神代には「天津彦根は額田部等の遠祖なり。」と額田部氏の名が出てくる。確かに『新撰姓氏録』の額田部河田連・額田部湯坐連の先祖は天津彦根となっている。一方、応神天皇の御子に額田大中彦皇子がいる。額田大中彦皇子は仁徳天皇と異母兄弟で、それも母が姉妹という血の濃いい関係にある。額田大中彦皇子と額田部氏とは、繋がりがあるように思える。仁徳7年の記事に「大兄去来穂別皇子(長子:履中天皇)の為に壬生部を定める。」とある。壬生部とは氏族の名でなく、皇子女の養育のために置かれた部の総称であり、額田部は額田大中彦皇子の養育のために置かれた部と考える。額田部湯坐連の「湯坐
(ゆえ)」には、貴人の養育者との意味もあることからも、それ額田部氏が皇子の養育をしたことが伺える。『新撰姓氏録』にある、允恭天皇から額田部連の姓を賜った話は、額田部の長が氏族として認められ、額田部のウジと連のカバネを賜った話であり、馬の額が田の字の廻毛があったというのは作り話であろう。

『日本書紀』推古前紀には「豊御食炊屋姫
(推古)天皇は、天國排開廣庭(欽明)天皇の皇女で、橘豊日(用明)天皇と同母妹である。幼少の頃は額田部皇女と申し上げた。御年十八の時に、敏達天皇の皇后となられた。」とある。推古天皇の養育、あるいは養育費用を額田部氏が担ったと考えられる。

Z94.岡田山1号墳.png松江市大草町に島根県立の八雲立つ風土記の丘資料館がある。風土記の丘には7基の古墳があり、一番大きな岡田山1号墳は、横穴式石室のある墳長24mの前方後方墳である。石室内にあった家形石棺からは「長宜子孫」の銘を有する内行花文鏡・環頭大刀・円頭大刀・圭頭大刀・銀環・金銅丸玉・轡・鞍金具・雲珠・辻金具・鈴・須恵器などが出土し、6世紀後半の古墳と考えられている。1983年に円頭大刀の保存処理を依頼されていた奈良市の元興寺文化財研究所が刀身部をX線調査したところ、「各田卩臣」(額田部臣)を含む12文字が
銀象嵌されていることが判明した。

『出雲風土記』大原郡の条の署名欄に「少領
外従八位上 額田部臣」との記載がある。『出雲風土記』は天平5年(733年)に編纂されており、当時岡田山1号墳のある八雲立つ風土記の丘の地域は意宇郡の領域であり、大原郡と接していた。これらからして、岡田山1号墳の円頭大刀に銀象嵌銘にある「額田部臣」は、6世紀後半には出雲在地の豪族であったことが分る。『日本書紀』敏達紀には、敏達天皇4年に皇后の広姫が薨かり、5年に額田部皇女を皇后に迎え、6年に私部を置いている。私部(きさいちべ)は后妃のために置かれた部であり、后妃の名を冠している。敏達6年(577年)に皇后額田部皇女のために、出雲に私部として額田部が置かれたとするならば、岡田山1号墳の鉄剣銘・『出雲風土記』・『日本書紀』が一致してくる。

表Z95に、『日本書紀』の額田部に関係する記述(白色)、氏姓・部の制度に関する記述(黄色)、『新撰姓氏録』の記述(水色)、考古史料(緑色)を年代順に列記した。『日本書紀』の西暦は「縮900年表」で示している。『日本書紀』の記述は、『新撰姓氏録』、『出雲風土記』、岡田山1号墳の鉄剣銘、大和国額田寺伽藍並条里図と何ら矛盾がないことが分る。額田部連の成り立ちが允恭紀(442~460年)であるとすると、表Z90に見られるように、「連」の姓が允恭紀以前から存在することからして納得できることである。


Z95.額田部の記述.png


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