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54-7.連のカバネを冠した氏族の元祖は物部氏 [54.『日本書紀』から探るウジとカバネの史実]

ヤマト王権の時代のカバネの連は、「天神・天孫に連なる」氏族に与えられた尊称であった。物部連は天磐船に乗って大和に天降った饒速日命の後裔、大伴連は天孫降臨に随伴した天忍日命の後裔で、中臣連もまた瓊瓊杵尊が天孫降臨の際に随伴した天児屋命の後裔である。土部氏は天照大神の子で出雲に天降りした天穂日命の後裔と名乗っている。そして、連のカバネを冠した氏族は、それぞれ職掌を担い王権と直接の関わりを持っていた。物部氏は王権の軍事を担当し、大伴氏は宮廷を警護する護衛の役割を担い、中臣氏は神事・祭祀をつかさどり、土師氏は古墳造営や葬送儀礼に関わった。『日本書紀』に登場する物部氏・大伴氏・中臣氏・土師氏について調べ、表Z88の表にした。表から見ると垂仁天皇の時代に、物部氏と土師氏の両氏が連のカバネを冠したかのように見受けられるが、「54-3.土師氏を知れば臣・連の起源が分かる」で示したように、土師(土部)氏が賜ったのは「臣」であり、連のカバネを冠した氏族の元祖は物部氏である。

Z88.連の元祖は物部氏.png


ウジ名としての物部については、「部」が付いていることから、「部」の制度が成立した後に物部氏が誕生したのであり、物部氏の成立は部民制度が確立した五世紀中葉から後半のことであるとする直木孝次郎氏や、物部氏はモノノフ(武人)・モノノグ(武器)に由来するとみられ、王権の軍事を担当するところから生まれた呼称とする熊谷公男氏の見解がある。私は物部氏の原点は、崇神7年(257年)の記事に「物部連の祖である伊香色雄を神班物者と為す。」にあると考える。「神班物者」とは、『日本古典文学大系 日本書紀上』(岩波書店)では、「神に捧げる物をわかつ人」とある。「班」も「部」も「わける」という意味があり、「神班物者」は「神部物者」とも言え、物部氏の起源は「神に捧げる物をわかつ人」から来ていることが分る。

崇神7年
の記事には、「伊香色雄に命じて、物部八十手所(平瓮)を以て、祭神之物を作る。」と「物部」が登場する。『古事記』には、「伊迦賀色許男命に仰せして、天之八十毘羅訶を作る。」とあり、『日本古典文学大系 日本書紀上』では「手所」は「平瓮」の誤写であろうとしている。この「物部」の「物」は「祭神之物」を示し、「部」は「わける」である。「物部八十平瓮」とは、「神に捧げる物をわかつ多くの平瓮」である。その平瓮(平皿)を伊香色雄に作らせたことになる。

垂仁26年
(285年)の記事には、「天皇は物部十千根大連に詔して、『たびたび使者を出雲に遣わして、その国の神宝を調べさせたが、はっきりと申す者もいない。お前が出雲に行って調べてきなさい。』といわれた。物部十千根大連は神宝をよく調べてはっきりと報告した。それで神宝のことを掌らされた。」とある。また、垂仁87年(299年)の記事には、「物部十千根大連が石上神宮の神宝を大中姫より授けられ治めることになった。物部連が今に至るまで、石上の神宝を治めているのは、これがそのもとである。」とある。垂仁26年・87年の記事で、物部十千根は大連と称されている。大連は大臣と並んで王権の中枢で執政を担った役職である。物部十千根は、天皇を補佐し国政に携わる大連の役職を任じられたのではなく、神宝を掌る職務につくことで「連」の姓を始めて賜った物部氏の氏祖(物部氏の始祖は饒速日命)である。物部氏が後世多くの「大連」を輩出していることから、尊称として『日本書紀』の述作者が「大連」と加筆したのであろう。

石上神宮の近くに布留遺跡
(天理教関連施設内)があり、物部氏の本拠地だとされている。この布留遺跡から出土した土器は、土師器の中でも最も古い様相を呈するものがあり、「布留式土器」と命名されている。平成21年5月、国立歴史民俗博物館の研究グループは、大和Ⅴ・Ⅵ式土器、庄内0・1・3式土器、布留0・1・2式土器に付着した炭化物の炭素14年代値を測定し、日本産樹木の較正年代曲線上に、土器の相対年代順に炭素14年代値を配置することによって、箸墓古墳の築造(布留0式)は240~260年頃と発表した。この年代感は、従来の年代感と違うと言う事で、考古学会で大きな波紋を引き起こしたが、私は考古学が行って来た緻密な土器の相対年代と、科学的手法の絶対年代がマッチングした、素晴らしい成果だと思っている。『日本書紀』には崇神10年(260年)に箸墓が造られたと記載している。崇神7年(257年)に、物部連の祖である伊香色雄が作った平瓮は、布留0式土器という事になる。『日本書紀』と「縮900年表」、そして「炭化物の炭素14年代値」のマッチングがとれている。

Z89.物部氏の系譜.png『先代旧事本紀』は平安時代の前期に成立し、物部氏の氏族伝承を
中心に書かれている。この本にある物部氏の直系の系譜と、『日本
書紀』に書かれた物部氏とについて、伊香色雄命から物部氏の滅亡
(587年に物部守屋大連が蘇我馬子大臣に殺された)までを比較し
表Z89に示した。「年号」は、その人物が初めて書紀に登場する
年号である。崇神7年(257年)に登場する伊香色雄から、敏達
元年(572年)までの315年間で、8代の代替わりがありその平均は39年間である。代替わりの期間が少し長いように思われるが、ちなみに蘇我氏については、蘇我稲目大臣(宣化元年:536年)、蘇我馬子大臣(敏達元年:572年)、蘇我蝦夷大臣(推古36年:628年)、蘇我入鹿
(皇極元年:642年)で、106年を3代の代替わりで平均35年間である。代替わりの期間が少し長いのは、古代の氏族は多くの側室を持ち、その子の中で優秀なものを跡継ぎにしたためではないかと考える。物部氏の系譜から見ても縮900年表の編年は妥当といえる。



 


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