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54-5.稲荷山鉄剣銘は『日本書紀』を蘇らせた [54.『日本書紀』から探るウジとカバネの史実]

1978年、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の鉄剣に、金象嵌された115文字が刻まれていることが発見された。この銘文には「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王)」の名があり、熊本県の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄剣銘にも、「治天下獲□□□鹵大王」の文字が刻まれており、獲加多支鹵大王は雄略(紀:幼部、記:若建、ワカタケル)天皇を指すことが分った。雄略天皇は宋書倭国伝の478年に宋に朝貢した倭王武に比定されており、金象嵌銘文にある「辛亥の年」は471年と解明された。これらの発見により、『日本書紀』を歴史資料として扱うことを認めなかった歴史学者も、雄略天皇以後についてはその認識が変わってきた。

Z86.稲荷山鉄剣.png稲荷山古墳出土鉄剣の金象嵌銘文115文字には、「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」・「辛亥の年」の文字以外にも、『日本書紀』が記載した歴史を証明する要素が刻まれている。埼玉県教育委員会編集の『稲荷山古墳出土鉄剣金象嵌銘概報』にある、115文字の訓読を下記に示す。なお、( )にある別の読み方は省いている。
辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒシワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。其の児、名はカサヒヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケルの大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。」

「上祖、名はオホヒコ」の「オホヒコ」は、書紀で孝元天皇の皇子であり、崇神天皇の時代に四道将軍として北陸に遣わされた「大彦命」と比定されている。孝元紀では、大彦命は阿倍臣・膳臣・阿閇臣・伊賀臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造ら七族の始祖とされている。その内、膳臣・阿閇臣・狭狭城山君は雄略紀に登場しており、その真偽は別として、雄略天皇の時代に大彦命を始祖・上祖とする氏族がいたことは間違いのない史実であろう。

「タカリのスクネ(足尼)」の「足尼」は、奈良県斑鳩町の中宮寺が所蔵の天寿国繍帳(621年頃)や群馬県高崎市の山上碑(681年建立)にある、「宿禰」の古い表記法であることが知られている。稲荷鉄剣の金象嵌銘文が発見される以前には、歴史学者は、「宿禰」は天武13年の八色姓の一つであり、大化前代にみえる「宿禰」は、『日本書紀』の後世の用語を用いる潤色であると考えられていた。書紀には雄略天皇より前には27名、雄略紀では7名の宿禰の称号を持つ人物が登場している。一番初めに登場する人物が伝説上の武内宿禰であり、その影響もあって宿禰の称号が実在するとは考えられなかったのであろう。3代・4代・5代に付けられた称号「ワケ(獲居)」は「別」と解釈されている。書紀には「別」の称号を冠した天皇や皇子が多数記載されているが、その他にも「〇〇別」と記載された人物が雄略天皇より前には11名、雄略紀では2名登場している。書紀に書かれた宿禰や別の称号を持つ人物は、実在の可能性が高いと考えるべきかも知れない。稲荷山鉄剣銘が『日本書紀』を歴史資料として蘇らせたことの意義は大きい。


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