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54-4.野見宿禰は形象埴輪を開発した [54.『日本書紀』から探るウジとカバネの史実]

野見宿禰が殉死の代りとして、人や馬および種々の物の形を造って陵墓に立てたとある、土師氏誕生の話は史実であろうか。垂仁32年は、「縮900年表」では291年にあたる。「51-1.考古学から見た「縮900年表」の信頼性」で示したように、古墳の形態・埋葬施設・副葬品の70項目・102品目の相互関係を調べ、その編年表を作成している。この編年表を適用して、2300基余りの古墳をフルイ別けしたとき、矛盾が生じたのは11基のみであったことから、その絶対年の正確さは別にして、70項目・102品目の相互関係は正確であると自負している。

この編年表では、円筒埴輪・朝顔形埴輪が280年~、形象埴輪の器財埴輪・動物埴輪が290年~、人物・馬埴輪は400年~、と編年している。野見宿禰が埴輪を造って陵墓に立てた年代、291年[垂仁32年]と、人物・馬埴輪の年代は大きく異なるが、形象埴輪の器財埴輪・動物埴輪の登場とは一致する。野見宿禰が種々の物の形の埴輪(形象埴輪)を製作したというのは史実であろうが、殉死の代りとか人や馬の埴輪というのは、書紀が物語化するための加筆であろう。

Z85.形象埴輪.png


埴輪の前段階の特殊器台は260~289年と編年しているが、特殊器台発祥の地は吉備であり、吉備には弥生墳丘墓に特殊器台が備えられている。出雲にある弥生後期の西谷2号・3号・4号四隅突出型墳丘墓からは、吉備の特殊器台が出土している。出雲では山陰型特殊器台が、吉備の特殊器台に引き続き、弥生後期から古墳時代初期まで製作されている。これらからすると、弥生後期から古墳時代初期に出雲に埴輪の前段階の特殊器台を製作する人々がいたことは確かで、野見宿禰が出雲の土部百人を呼んで埴輪を作ったというのも史実と考えられる。

仁徳天皇陵古墳がある堺市の百舌鳥古墳群のある地区には、土師町という地名が現在でも残っており、応神天皇陵古墳のある古市古墳群のある藤井寺市には土師という地名は無いが、土師の里遺跡と命名された、古市古墳群の築造開始と軌を一にして成立した、古墳造りに関わった遺跡がある。垂仁天皇の時代から仁徳天皇の時代にかけては古墳時代の最盛期であり、土師氏はヤマト王権にとっては重要な役目を担っていた氏族であった。なお、土師氏は天武13年の八色姓で宿禰の姓を賜り、土師連から土師宿禰となっている。


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