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53-8.金官国(南加羅)の滅亡は毛野臣のせいか? [53.「任那」を解けば歴史認識が変わる]

『三国史記』新羅本紀には、「法興王19年(532年)に、金官国王・金仇亥が王妃および3王子と共に国の財宝をもって来降した。王は彼らを礼式に従った待遇をし、上等の位を授け、本国を食邑として与えた。」と金官国の滅亡の話がある。南加羅(金官国)の滅亡の話は、『日本書紀』の継体天皇紀にも記載がある。西暦は「縮900年表」で、[年号]は日本書紀記載の年号である。

530年[継体21年]6月・・・②
 近江の毛野臣が兵6万を率いて任那におもむき、新羅に破られた南加羅・㖨己呑を再興して任那にあわ
 せようとするするが、筑紫磐井が反乱し、毛野臣の任那に行くのを妨げた。
532年[継体23年]3月・・・④
 南加羅・㖨己呑を再興するために毛野臣は安羅に遣わされた。毛野臣は熊川にいて、天皇の詔勅を聞か
 せるために新羅王を呼び出した。新羅は任那の官家を破ったことを恐れ、官位の低い奈麻礼を遣して
 来た。毛野臣は「国王が来ないで軽臣を遣すのか」と使いを責めた。
532年[継体23年]4月・・・①
 任那王、己能未多干岐が来朝して、「いま新羅は始めにきめて与えられた境界を無視して、度々領土を
 侵害しております。どうか天皇に申し上げ、私の国をお助け下さい。」と言った。
532年[継体23年]4月・・・⑤
 新羅の上臣(大臣)・伊叱夫礼智干岐が三千の兵を率いてやって来て多多羅原に陣取った。毛野臣は
 熊川から任那の己叱己利城に入り、新羅の上臣と3ヶ月対峙した。
532年[継体23年]7~8月・・・③
 新羅の伊叱夫礼智干岐は金官・背伐・安多・委陀(ある本では、多多羅・須奈羅・和多(わた)・費智)
 の四村を掠めて、人々を率いて本国に帰った。ある人が「多多羅ら四つの村が掠め取られたのは毛野臣
 の失敗であった。」と言った。

530年6月の毛野臣の任那派遣の目的は、新羅に破られた南加羅・
㖨己呑を再興することであり、南加羅(金官国)は既に滅んだことになっている。また、532年3月の記事でも、「新羅は任那の官家を破ったことを恐れ」と、南加羅は既に滅んだことになっている。その一方、532年7~8月の記事にある「新羅が金官等の4村を掠めて、人々を率いて本国に帰った」は、『三国史記』法興王19年(532年)の「金官国王・金仇亥が王妃および3王子と共に来降した。」ことを言っており、532年7~8月に金官国(南加羅)が滅亡したことを示している。金官国(南加羅)の滅亡の時期について矛盾がある。前記の530年6月から532年7~8月の記事に①~⑤までの番号を付けて、『日本書紀』の記事の前後関係を修正した。こう考えると、『日本書紀』と『三国史記』には何の矛盾も生じない。

530年4月、任那王・己能未多干岐が来朝して、新羅が攻めて来たと救援を要請。
530年6月、任那の救援のため毛野臣が6万兵を率いて出発するも、筑紫磐井の反乱により頓挫。
532年春頃、新羅の伊叱夫礼智干岐は金官国を滅ぼし、金官国王は王妃と3王子を伴い新羅に来降。
532年3月、毛野臣は南加羅再興ために安羅に遣わさた。毛野臣は卓淳国の熊川(慶尚南道昌原郡熊川
       面)に陣取って、新羅を呼び出し南加羅の返還を迫る。
532年4月、新羅の伊叱夫礼智干岐が三千の兵を率いて多多羅原に陣取る。毛野臣は熊川から任那の
       己叱(久斯:昌原)己利城に入り、新羅の上臣と3ヶ月対峙した。

Z-76.多多羅原推定地.png毛野臣と3ヶ月対峙した、新羅の伊叱夫礼智干岐が陣取った多多羅原は、通説では洛東江河口の東側先端にある多大浦とされているが、既に占領している金官国から後退して陣営を張るような戦略は取らないであろう。多多羅原は金官国と卓淳国と境にある卓淳国の地であった考える。多多羅原の推定地を地図Z76に示した。卓淳国は金官国が滅びた後、直ぐに新羅に滅ぼされている。欽明5年3月の記事に、「新羅は春に㖨淳(卓淳)を取り、わが久礼山の守備兵を追い出し占領した。その後、安羅に近い所は安羅が耕作し、久礼山に近い所は新羅が耕作し、侵しあわずいた。」とある。新羅が占領した地が多多羅原とすれば、その西側には安羅国(威安郡)があり状況は合っている。


『日本書紀』の南加羅の滅亡の記事は、時系列的に多くの矛盾を含んでいる。このような矛盾を何故記載したのだろうか。継体紀には、毛野臣の任那での言動について問題が多く、評判が悪かったことが掲載されている。毛野臣の帰還を促すために任那に遣わされた使者・調吉士は、「毛野臣は人となりが傲慢でねじけており、政治に習熟していない。和解することを知らず加羅をかき乱した。自分勝手にふるまい憂慮される事態を防ごうともしていない。」と帰国後報告している。その後、毛野臣は召喚され、帰国途中対馬で病のため亡くなった。このようなこともあり、「多多羅ら四つの村が掠め取られたのは毛野臣の失敗であった。」の声が上がったのであろう。

『日本書紀』
は、毛野臣は南加羅が滅ぼされた後に派遣されたにも関わらず、「南加羅が滅ぼされたのが毛野臣のせいである」という物語になっている。欽明元年(540年)9月の記事には、任那の南加羅を滅ぼした新羅の征伐を計るとき、物部大連尾輿が「昔、継体天皇の六年に、百済が使いを遣わして、任那の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の4県を乞うてきたとき、大伴大連金村はたやすく願いのままに求めを許された。このことを新羅はずつと怨みに思っている。軽々しく征伐すべきでない。」と天皇に奏上している。「任那を滅ぼしたのは大伴大連金村のせいだ」という噂が諸臣の間に流れたようで、大伴金村は家にこもり、病と称して出仕しなかった。天皇は「忠誠の心をもって、長らく公に尽くしたのだから、噂は気にしなくよい」と仰せられ、罪を科することなく、いっそう手厚く待遇されたとしている。しかし、その後大伴金村が政(まつりごと)の場に出てくることは一切無く、失脚したのであろう。

Z-77.枚方地名由来碑.png欽明元年以前に「南加羅が滅ぼされたのが毛野臣のせいである」という噂を流し、毛野臣に濡れ衣を着せたのは、自分の失政を隠すための、大伴大連金村の謀略であったのではないかと思える。毛野臣の葬送の舟が河筋を上って近江に着いたとき、その妻が歌を歌っている。
「枚方を通って笛を吹きながら淀川を上る。近江の毛野の若殿が
 笛を吹いて淀川を上る。」
毛野臣の妻にとっては、葬送の舟の笛の根は、毛野臣(若殿)の無実を訴える叫び声に聞こえたのであろう。私には、まじめ一徹で融通が利かなかったであろう毛野臣の姿が思い浮かぶ。


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