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53-7.任那同盟諸国(任那連合と加羅連合) [53.「任那」を解けば歴史認識が変わる]

『日本書紀』には、欽明23年(562年)の記事に「新羅は任那の官家を打ち滅ぼした――ある本には、21年に任那は滅んだとある。総括して任那というが、分けると加羅国・安羅国・斯二岐国・多羅国・卒麻国・古嵯国・子他国・散半下国・乞飡国・稔礼国、合わせて十国である。」とある。これら10ヶ国の内、乞飡国・稔礼国の2国以外の国々は、欽明2年(541年)と欽明5年(544年)に百済で開かれた通称・任那復興会議に出席しており、6世紀半ばまで生き延びた国々である。それまでに滅びた南加羅・卓淳・㖨・比自を入れると、任那は14ヶ国あったことが分る。

6世紀半ばまで生き延びた
10ヶ国の内、加羅国・安羅国・多羅国を除いた7ヶ国の中で、卒麻国の比定地を慶尚南道の密陽とする通説がある。密陽は洛東江東岸にあって、新羅と既に新羅に滅ぼされた比自(昌寧郡)に挟まれ、南は洛東江を境に既に新羅に滅ぼされた南加羅(金官国)と向き合う四面楚歌の地域である。密陽にある古墳は7基(1973年調査)で、比自や南加羅の滅亡後も生き残れたほどの強国があったとは思えない。6世紀半ばまで生き延び7ヶ国、斯二岐国・卒麻国・古嵯(久嗟)国・子他国・散半下()国・乞飡国・稔礼国は、任那連合国では安羅以西であり、加羅連合国では洛東江以西であると考えられる。

Z-74.于勒博物館.png加羅(大伽耶)があった高霊に于勒博物館があり、韓国の伝統的楽器である伽耶琴の創始者である于勒と関連する資料を展示している。『三国史記』巻32楽志・「伽耶琴」に、「加耶国の嘉實王、唐の楽器を見て之を造る。・・・省熱縣人の楽師・于勒に命じて12曲を造らせた。後に于勒はその国が乱れたので、楽器を携えて新羅の眞興王に身を寄せた。・・・于勒の製作した12曲は、一曰下加羅都,二曰上加羅都,三曰寶伎,四曰達己,五曰思勿,六曰勿慧,七曰下奇物,八曰師子伎,九曰居烈,十曰沙八兮,十一曰爾赦,十二曰上奇物,」とある。『三国史記』新羅本紀には、新羅の眞興王が于勒の演奏を聴いたのは、眞興12年(551年)のとある。

朝鮮古代史が専攻の歴史学者・田中俊明氏は、于勒の製作した12曲は、
510年頃の大伽耶連盟の諸国名を伝えているとしている。私が注目するのは、五の「思勿」である。『三国史記』地理史に、固城郡泗水縣の古名が「史勿縣」、現在の慶尚南道の泗川であるとしている。「思勿」と「史勿」は同じで、泗川が加羅連合諸国の地域であることがわかる。泗川は6世紀半ばまで生き延び7ヶ国のどの国にあたるかは明白でないが、泗川地域(泗川郡と晋州市の南江南側)には古墳が71基存在し、加羅連合諸国の一国が存在したのは確かである。泗川が加羅連合諸国となれば、任那連合国の西の端は小伽耶と呼ばれた固城となる。固城郡の古名は「古自郡」であり、古嵯(久嗟)国にあたると言われている。

任那連合諸国は、東から①南加羅
(金官)国(金海郡:41基)、②卓淳国(昌原郡:63基)、③安羅国(咸安郡:63基)、④古嵯国(固城郡:172基)の4ヶ国となる。数字は1973年調査の古墳の概数。南加羅連合国は加羅・多羅・㖨己呑・比自火・斯二岐国・卒麻国・子他国・散半下()国・乞飡国・稔礼国の10ヶ国となる。田中俊明氏は、于勒の製作した12曲の内の、七の下奇物と十二の上奇物の「奇物」は、520年に百済に賜った己汶(南原)であるとしている。そうなると、南加羅連合国の領域では于勒の製作した曲は10ヶ国となり、『日本書紀』から導いた南加羅連合国の10ヶ国と一致する。

南加羅連合国の10ヶ国の内、⑤加羅国(高霊郡:138基+陜川郡安林川上流域:47基+星州郡合川上流域:152基)、⑥多羅国(陜川郡黄川中・下流域:110基)、⑦
㖨己呑国(星州郡:263基)、⑧比自火国(昌寧郡:224基)の4国は比定できる。残る6ヶ国を地名から比定できる確実な資料はない。その候補地を古墳の数から7ヶ所選び仮称の国名を付けた。⑩陽川国(陜川郡陽川流域:420基)、⑫晋州国(晋州市南江北側:75基)、⑨居昌国(居昌郡:32基+陜川郡黄川上流域:32基)、⑬泗川国(泗川郡:24基+晋州市南江南側:32基)、⑪宜寧国(宜寧郡:29基)、⑭三清国(三清郡:29基)、⑮河東国(河東郡:19基+泗川郡西部:5基)である。

Z-75.任那同盟諸国.png『日本書紀』欽明4年(543年)11月に、倭国は津守連を遣わして百済に詔し、「任那の下韓にある百済の郡領・城主を引き上げて日本府に帰属させる」と言っている。それに対して百済の聖明王は、「南韓(下韓)の郡領・城主を置いているのは、天皇にそむいて調貢の路を遮断するものではない。これを置いて守りを固めなければ、新羅を防ぐことは出来ない。その上で新羅を攻め、任那の存在を図る。そうしなければ百済は滅亡し朝貢できなくなる。」と任那復興のため必要と拒否している。532年に百済は多差津を倭国の後押しで加羅連合より奪っている。そして、蟾津江を超え、任那の地まで侵出したのであろう。⑮河東国(私称)を下韓(南韓)と比定する。任那諸国の一国の大きさを郡の大きさとすれば、図Z75に示すように、①から④までの4ヶ国が任那連合諸国、⑤から⑭までの10ヶ国が加羅連合諸国と、14ヶ国で伽耶の地域がすべて網羅される。


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