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53-5.任那七ヶ国が比定出来れば「任那」が解る [53.「任那」を解けば歴史認識が変わる]

「任那」の文字が多く出てくる継体紀・欽明紀は、「任那の復興」について書かれているが、何度読んでも任那の実態がもう一つ分かり難い。それは、場面々々で「任那」の内容が、任那連合(洛東江下流と支流の南江で囲まれた倭人が住んでいた諸国)、任那同盟(伽耶諸国:任那連合+加羅連合)、任那地域(任那同盟+慕韓+秦韓)と違っているからだ。そのため、今後断らないかぎり、「任那」は任那同盟(伽耶諸国:任那連合+加羅連合)の任那七国+αを示すとする。

『駕洛国記』には、六伽耶の地が現在の地名で比定されている。それをもとに
任那七国の地を比定してみる。南加羅(金官伽耶・大駕洛)が慶尚南道の金海①に比定されている。この南加羅(金官国)は532年に新羅により滅ぼされている。安羅は安羅伽耶であり、安羅(阿羅・阿那・阿尸良)は慶尚南道の咸安②に比定されている。加羅(大伽耶・加耶)は慶尚北道の高霊③に比定されており、562年に加羅は新羅に滅ぼされている。

「駕洛国記」の五伽耶には出て来ないが、『三国史記』地理史にある大良州(大耶州)が多羅国で、洛東江支流の黄江中流域に在る慶尚南道の陜川④に比定されている。黄江下流域にある玉田古墳群の近くには、多羅里の地名が現存している。『三国史記』地理史にある比自火(比斯伐)が比自で慶尚南道の昌寧⑤とされている。昌寧は洛東江と山に囲まれた地域で、洛東江東岸で新羅側にあるにも関わらず、長らく伽耶の影響下にあった。新羅の真興王は加羅を滅ぼす前年の561年に、昌寧の地に碑(昌寧碑)を建立し、その決意を表明している。

Z-72.任那7ヶ国.png任那7国の内5ヶ国は比定できた。残るは卓淳(㖨淳)と㖨(㖨己呑)の二ヶ国である。両国は言語学者の鮎貝房之進氏が慶尚北道の大邱・慶山の古名が卓淳・㖨に通じるものがあると比定して以来、卓淳は大邱、㖨は慶山に比定するのが有力視されている。朝鮮半島の地形図Z72 では、「A」が大邱、「B」が慶山である。都を慶州の金城に置く新羅にとって、百済・高句麗に対処するために、西の洛東江に進出する要(かなめ)の地は大邱であることは、軍師の諸葛孔明・竹中半兵衛・黒田官兵衛でなくても一目瞭然である。四世紀の初めに興った新羅が、卓淳国と㖨国が新羅に滅ぼされた六世紀の初めまでの
2百年間も、自国の陣営に取り込まないで置くはずは無いと考える。現に
『三国史記』によると、新羅は261年に達伐城(慶北大邱市)を築いている。また、沾解王(247~261年)のとき沙伐国(慶北尚州市C)を州としたことや、5世紀後半に忠清北道に多くの城(▲)を造っていることからも分かる。大邱・慶山は4世紀以降新羅の領域であり、6世紀前葉まで存続した卓淳(㖨淳)と㖨(㖨己呑)を大邱・慶山に比定することは出来ない。

『日本書紀』の欽明5年
(544年)3月の記事に、「新羅は春に㖨淳(卓淳)を取り、わが久礼山の守備兵を追い出し占領した。その後、安羅に近い所は安羅が耕作し、久礼山に近い所は新羅が耕作し、侵しあわずいた。」とある。これらからして、532年に滅ぼされた金官国(南加羅)の隣に卓淳国があり、その隣に安羅国があるということになる。昌原⑥の一帯が卓淳国に比定する。

㖨国については、
欽明2年(541年)4月の記事に、「㖨己呑(㖨)は加羅と新羅との境にあって、ひっきりなしに攻められ敗れた。任那も救い助けられなかった。それで亡んだ。」とある。これらに該当する地は、加羅を大伽耶(高霊E)と捉えると、㖨国は星山伽耶(星州F)となる。金官国と㖨国は同じ頃に新羅に滅ぼされたことから、㖨国を金官国の近くに考える学者もいるが、私はそうは思わない。新羅が同盟七国を相手に戦を仕掛けるとき、南の端と北の端の二国を同時に攻める戦略の方が優れていると思える。欽明5年(544年)3月の記事には、「㖨国も卓淳国も新羅に内応したために滅びた」とある。532年に新羅に投降した金官国の金仇亥国王は、新羅から上等の位を授けられ、本国をその食邑に与えられている。この戦略が功を奏し、㖨国も卓淳国も新羅に籠絡されたのであろう。㖨国を星山伽耶の地、星州⑦に比定する。

『古代の韓国と日本』(1988年)に金泰植氏の「5世紀後半、大伽耶の発展」という論文がある。その中に「星州と高霊を一つの政治勢力と見るのは妥当でない。二地域の古墳遺物を比較して見ると、星州・星山洞1・2・6号墳から出土した土器形式は、全般的に慶州出土のものと似ている。そして、星山洞1号墳出土の金製耳飾、金製帯金具・冠飾なども慶州・梁山・昌寧校洞・
大邱飛山出土のものと同じ形式を帯びている。つまり、遺物の様相からみて、高霊は前段階の伽耶形式を継承した様相を見せているのに比して、星州は洛東江東岸の新羅様式をおびており、文化的にも政治的にも慶州の新羅王権と交渉が深いことを反映している。」とある。考古学からしても、星山伽耶の地・星州⑦を㖨国に比定しても齟齬は無い。


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