SSブログ

53-4.南加羅(金官伽耶)と加羅(大伽耶) [53.「任那」を解けば歴史認識が変わる]

Z-71.金官伽耶と五加羅.png

任那諸国(比自・南加・㖨・安羅・多羅・卓淳・加羅)のあった地域を伽耶と呼ぶが、伽耶諸国についての史料は少ない。『三国遺事』に引用されている『駕洛国記』は、知金州事(金海市長)の金良鎰が11世紀末に編纂したものである。『駕洛国記』は、「後漢光武帝18年、亀旨峰に天から紫の綱が降りてきて、黄金の箱に六個の卵があり、その卵から六人の童子が生まれた。最初に現れたのが首露で、その国は大駕洛(伽耶国)と呼ばれた。残りの五人は五伽耶の主となった。」とある。大駕洛は金官伽耶(金海)で、五伽耶は安羅伽耶(威安)、小伽耶(固城)、大伽耶(高霊)、星山伽耶(星州)、古寧伽耶(威寧)としている。


伽耶山.png『新増東国輿地勝覧』に引用された、9世紀末の新羅の儒学者・崔致遠が著した『釈利貞伝』には、「伽耶山の山神・正見母主は、天神・夷毗訶毗の感ずるところとなり、大加耶王の悩室朱日と金官加耶王の悩室青裔の二人を生んだ。悩室朱日は伊珍阿豉王の別称で、悩室青裔は首露王の別称である。」とある。『駕洛国記』と『釈利貞伝』が伝える金官伽耶の始祖王・首露と大伽耶の始祖王・伊珍阿鼓の誕生伝説はあくまで神話であるが、伽耶諸国を代表するのが、洛東江河口の金海にあった金官伽耶と、洛東江中流で伽耶山東麓の高霊にあった大伽耶の二国であったことを示している。

『三国史記』列伝の金庾信条には「南加耶始祖首露」とあり、任那7ヶ国の「
南加羅」が始祖を首露とする金官伽耶であることが分る。大伽耶が任那7ヶ国の「加羅」あることを直接表記した史籍はないが、『三国史記』地理史、高霊郡条に「もと大加耶国、始祖伊珍阿鼓王(内珍朱智とも云う)より道設智王に至る。凡そ16世520年。真興大王これを滅ぼし、その地を以って大加耶となす。」とある。『釈利貞伝』によると、大加耶国の始祖伊珍阿鼓王と金官伽耶の始祖・首露王は二子に生まれている。『駕洛国記』よると、金官伽耶の始祖・首露王の誕生は後漢光武帝18年(42年)である。これらから逆算すると、大加耶国が新羅の真興大王に滅ぼされたのは562年(520+42)となる。

『三国史記』新羅本紀、
真興王23年(562年)には、「加耶が反乱を起こした。王は異斯夫に命じてこれを討伐させ、斯多含を副将とした。・・・すべて降伏した。」とある。『三国史記』列伝第四の斯多含条には、「眞興王、伊飡の異斯夫に命じて、加羅(加耶)國を襲う。」とある。これらより、大伽耶国が加耶國・加羅国であることが分る。『南斉書』東夷伝によると、479年斉に加羅王荷知の使いが来献し「輔國將軍加羅王」の称号を得ている。この加羅は大伽耶であると考えられている。

Z-70.5世紀末新羅城.png『宋書』倭国伝では、451年宋に朝献した済(允恭天皇)は「使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東将軍倭国王」称号を与えられ、478年に朝献した武(雄略天皇)も大将軍に昇格するが、同じ称号を与えられている。称号から見ると「任那」と「加羅」は別の国とされている。これらより、南加羅(金官伽耶)を盟主国とする任那連合と加羅(大伽耶)を盟主国とする加羅連合があり、任那連合と加羅連合を合わせた伽耶諸国(任那7ヶ国+α)の任那同盟があると考える。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。