SSブログ

51-2.鉄矛は国造制度の始まりの象徴 [51.統一国家(大和王権)はいつ誕生したか]

景行天皇の第四子が成務天皇である。『日本書紀』の成務5年、「縮900年表」では339年に、「諸国に令して国郡に造長を立て、県村に稲置をおき、それぞれ盾矛を賜って印とした。」とある。いわゆる、国造・県主の制度であり、天皇(大和政権)に任じられた者が地方を治める制度である。大和国(ヤマト王権)を盟主国としていた連合国家が、成務朝(335年~341年)に天皇を君主(大和王権)とする統一国家となったのであろうか。平安時代に書かれた『先代旧事本紀』国造本紀には、成務朝に60余りの国造が任命されたとしている。しかし、現在の歴史・考古学者のほとんどが、国造・県主の制度が成務朝に確立したと考えていない。まして、成務天皇・仲哀天皇・神功皇后は実在していなかったとする学者・研究者が多い。

Z-47.元稲荷山古墳.png『先代旧事本紀』国造本紀にあるように、成務朝に60余りの国造が任命されたとするならば、「国造・県主の制度の令」が史実であり、「鉄矛」が全国に与えられたことになる。鉄矛は206基の古墳から出土している。私の編年表では鉄矛を副葬する最も古い古墳は、京都の元稲荷古墳(260~289年)で、特殊器台埴輪を持つ古墳である。次は、京都の妙見山古墳(320年~339年)で、築造年代は円筒埴輪Ⅰ式(280~339年)と粘土槨(320年~)が決め手である。その後は、京都の瓦谷1号墳(340~359年)と奈良の新沢茶臼山古墳(340~359年)で、両者とも方形板革綴短甲が副葬されている。この後は4世紀後半に24基の古墳から鉄矛が出土している。その分布は、東から千葉1・東京1・静岡2・長野1・愛知1・岐阜1・京都2・奈良1・大阪4・兵庫3・香川1・岡山2・山口1・福岡2・佐賀1・宮崎1である。339年の国造・県主の制度の令が出た以降の半世紀の間に、鉄矛が関東から九州まで拡がった様子が伺える。

連合国家から統一国家になるとき、一番困難なことは連合の国々の王の既得権をはぎ取ることだ。連合以外の国々は一国ずつ武力で制圧すればよいだけだが、連合国は一国を攻めると全ての国を敵にまわす恐れがある。連合国を支配下に置くためには、連合国以外の多くの国々を支配下に置きその権力を見せつけるか、海外(朝鮮半島)に侵出しその分け前を与えるか、連合の国々から妻を迎える懐柔策を取るかである。豊臣秀吉が行ったことと同じで、権力のある君主が出て来なければ出来る話ではない。成務天皇の父、景行天皇は7人の妃を娶り、70人余りの御子がいて、皆それぞれ国や郡に封ぜられて、各国に赴かれたとある。「郡」など後世の言葉が出てきて信頼性を疑われるが、連合の国々への懐柔策が伺える。『日本書紀』の成務紀の記事からは、成務天皇が統一国家を作り上げたカリスマ的権力者であるとは読み取れない。私は、成務天皇の存在と、国造・県主の制度の令が成務朝に出たことは信じるが、国造・県主の制度が行き渡り、統一国家が出来上がったのは、後世のことであると考える。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。