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51-3.神功皇后の新羅侵攻は史実であった [51.統一国家(大和王権)はいつ誕生したか]

『日本書紀』に記載された天皇の中で、歴史・考古学者がその存在を全く信用していない天皇は、神武天皇と神功皇后であるといっても過言ではない。『日本書紀』は、神功皇后が攻め込んだ新羅の王の名を「波沙寐錦」と書いている。「寐錦」が新羅王を表すということを歴史学者(日本・韓国・中国)が知ったのは、1978年に韓国の忠清北道忠州市で発見された中原高句麗碑からである。あの有名な好太王碑にも永楽十年(400年)の記事に「新羅寐錦」の刻字があったが、日中韓の歴史学者は「新羅安錦」と読んでいた。日本書紀は歴史学者より「寐錦」の言葉を正確に伝えており、神功皇后の新羅征伐(346年)が史実であった証拠であると考えている。

「縮900年表」では、仲哀天皇が崩御された346年に、神功皇后が神託を受けて新羅に侵攻している。朝鮮の正史『三国史記』には「346年に倭軍が新羅の金城を包囲し激しく攻めた。新羅王は籠城し、倭軍の食料が無くなるのを待った。倭君が退却しようとしたので、精鋭な騎兵隊で追撃し敗走させた」とある。「縮900年表」と『三国史記』が一致しており、神功皇后の新羅征伐が史実であり、また「縮900年表」が正確であることを証明している。

Z-48.沖ノ島.png今年7月28日、文化審議会は世界遺産の登録候補として「宗像・沖ノ島」を推薦した。沖ノ島では1954年から始まった学術調査によって、4世紀後半から9世紀末にかけての古代祭祀の変遷の様子が明らかになった。祭祀の場は巨岩の上で始まり、岩陰、露天へと時期を追って変遷している。巨岩の上を神が降臨する場として祭祀が行われた「岩上祭祀」は4世紀後半から5世紀、せり出した巨岩の岩陰に祭壇を設け祭祀が行われた「岩陰祭祀」は5世紀後半から7世紀、祭祀の場が巨岩近くの露天となった「半岩陰・半露祭祀」は7世紀後半、巨岩から離れた平坦地で祭祀が行われた「露天祭祀」は8世紀から
9世紀と考えられている。

z-49.岩上祭祀遺跡鏡.png「岩上祭祀」とされる16号・17号・18号遺跡からは倣製三角縁神獣鏡が出土している。表Z46にそれらの遺跡から出土した倣製三角縁神獣鏡の段階(型式)を示した。古墳に副葬された鏡は、数十年あるはそれ以上伝世されている場合が多い。航海の安全を願って沖ノ島の岩上に祀った鏡は、長年の伝世の鏡ではなく、市場(?)に出回っているものを手に入った鏡であったと考える。「岩上祭祀」で出土した鏡のすべてが、倣製三角縁神獣鏡であることがこれを物語っている。そして、その時期はⅣ・Ⅴ段階の製作開始時期であると考える。

Z-50.三角縁神獣鏡.png福永伸哉氏は『三角縁神獣鏡の研究』のなかで、舶載鏡はA・B・C・Dの4段階、倣製鏡(仿製鏡)はⅠ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ・Ⅴの五段階の鏡種に分類している。そして、舶載鏡のA段階は239年の卑弥呼の朝貢、B段階は243年と247年の卑弥呼の朝貢、C段階は266年の壱与の朝貢で中国王朝より与えられたものであり、倣製鏡は316年に西晋が滅亡し、舶載鏡の入手が困難となって倭国で製作されるようになったとしている。私は古墳の築造年代と副葬された三角縁神獣鏡の型式年代を比較し、Z47に示す表を完成させた。これらより、沖ノ島の岩上祭祀遺跡は、Ⅳ~Ⅴ段階の倣製三角縁神獣鏡が製作されていた年代の340~350年頃から始まった遺跡と考える。

「縮900年表」では、346年に神功皇后が新羅に侵攻し、351年には葛城襲津彦が新羅に侵攻し捕虜を連れて帰っている。沖ノ島の巨岩の上で始まった祭祀「岩上祭祀」は4世紀後半から5世紀とされるが、神功皇后の新羅征伐に関わるころから始まった遺跡であった考える。
日本書紀では仲哀天皇が崩御された前年に、岡県主の先祖の熊鰐と伊都県主の先祖の五十迹手のそれぞれが、船の舳(とも)に大きな賢木(さかき)を立て、枝に白銅鏡と十握剣・八尺瓊(珠)をかけて天皇を迎えに来ている。沖ノ島の岩上祭祀遺跡である16号・17号・18号からは、鏡・鉄剣・勾玉が出土している。4世紀半ばの航海の安全の祈願には、鏡・鉄剣・勾玉の三種の神器を用いていたのであろう。


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