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50-6.鉄を求めた景行天皇の九州遠征 [50.倭国の盟主国、大和国(ヤマト王権)の誕生]

Z-41.景行天皇九州遠征.png

大和国(ヤマト王権)は崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇と続く。景行天皇は「熊襲がそむいて貢ぎ物を奉じなかった」と九州遠征をしている。その行程は、周芳の婆麼(山口県防府市佐波)から、豊前国の長狭県に渡り行宮(かりみや)を建て、その地を京(みやこ)(福岡県京都郡・行橋市)と呼んでいる。それから碩田(おおいた)国の速見邑(大分県速水郡・別府市)に至り、禰疑野(竹田市菅生)にいる土蜘蛛を討伐しようと、直入県の来田見邑(大分県直入郡・竹田市)に向かっている。稲葉の川上(稲葉川:竹田市)で、海石榴(つばき)の木で作った椎(つち)で土蜘蛛を討った。椎を作った所を海石榴市、血の流れた所を血田という。『豊後風土記』では、海石榴市も血田も大野郡(大野川中流域)にあるとしている。その後、景行天皇は日向国の高屋宮(西都市)の行宮に入られた。

景行天皇は日向で大隅半島の襲国(鹿児島県曾於郡)を平定したあと、九州巡幸を行っている。その道中で玉杵名邑(熊本県玉名市)で土蜘蛛を殺し、阿蘇国(熊本県阿蘇町)を巡り、御木(福岡県三池郡高田町)の高田の行宮に着かれている。熊本県玉名市から阿蘇町に行くには菊池川を遡り、鹿本町から支流の合志川を遡上し、大津町に出て阿蘇外輪山が途切れる立野より阿蘇谷(阿蘇盆地北部)の阿蘇町に入るルートと考えられる。

Z-42.九州武器鉄器.png図Z41が景行天皇の九州遠征経路である。この経路図を見て、不思議に思うことがある。それは、大分県側と熊本県側から阿蘇山に向かって内陸部に行っていることだ。表Z42は『邪馬台国と玖奴国と鉄』菊池秀夫(2010)に記載された、弥生時代の九州の武器類鉄器の遺跡ベスト20を示したものである。⑤の徳永川の上遺跡は福岡県京都郡豊津町に在る。大分県では、⑫の守岡遺跡と⑬の下郡遺跡は大分市を流れる大分川下流の川沿いにある。⑰の小園遺跡と⑱の上菅生B遺跡は竹田市の大野川上流域近くにある。⑲の二本木遺跡、⑥の高添遺跡と⑮の高松遺跡は大野川中流域にある。そして、宮崎県では②の川床遺跡は西都市に隣接する新富町にある。熊本県では、⑦の方保田東原遺跡は菊池川沿いにあり、①の西弥護免遺跡は大津町にある。③の狩尾湯ノ口遺跡、④の池田・古園遺跡と⑧の下山遺跡は阿蘇町にある。図Z41にある赤丸はこれらの遺跡である。景行天皇の行程は武器類鉄器の主要な遺跡がある地域を巡っている。弥生時代の九州の武器類鉄器の遺跡ベスト20のうち14遺跡が、景行天皇の九州遠征経路に入っている。

阿蘇谷は「阿蘇黄土」というベンガラ
(赤い塗料)の原料となる褐鉄鉱(リモナイト)の地層が広く分布している。狩尾湯ノ口遺跡、池田・古園遺跡と下山遺跡は褐鉄鉱の鉱床の傍にある。褐鉄鉱は鉄分が70%で、鉄の原料となり得る鉱石であり、戦時中はこれを製鉄の原料にしたほどである。しかし、阿蘇谷にある弥生遺跡からは鉄製品と鉄滓(鍛冶滓)は出土しているが、鉄滓(製錬滓)とかフイゴの羽口などは発見されてなく、鉄が製錬された形跡は無いとされている。しかし、褐鉄鉱の鉱床の傍に鉄器の遺跡が多数あることは、製錬滓が生成しない、フイゴの羽口が必要ない方法で、鉄が作られていたと想像する。

製錬滓(スラグ)とは、鉄鉱石に含まれる鉄以外の酸化物(主に
SiO2)と酸化鉄(主にFeO)とが反応して出来た化合物(Fe2SiO4等)である。因みにFe2SiO42FeOSiO2)の融点は1205℃と鉄の融点1539℃より低いので、鉄を製錬する時には必ず発生する。一方、鉄と結合している酸素を一酸化炭素COが奪って、鉄鉱石が金属鉄になる還元反応、Fe2O3Fe3O4FeOFeは、400~800℃程度でも起こる。もちろん、反応は温度の高い方が速い。純度の高い鉄鉱石(酸化鉄)を800℃から1000℃位で還元すれば、鉄鉱石は溶けることなく固体のまま酸素を失った孔だらけの海綿状の鉄になる。これを赤熱のまま固いものの上で打ち叩くと鉄の板が出来る。このときに出来る鉄滓は鍛冶滓(主にFeOFe3O4)だけであるし、フイゴの羽口が無くても確保できる温度である。純度の高い鉄鉱石(酸化鉄)は熔けなくても鉄に変えることができる。

現実には簡単なことではないだろうが、弥生人の知恵は現代人が考えることより、はるかに高度であると思う。縄文時代から古墳時代に使われたベンガラの中に、粒子がパイプ状であるベンガラがあることが分ってきている。このベンガラは鉄酸化細菌が水に溶解している鉄分から作ったものであり、その純度は高い。これらを原料にして弥生人は鉄を作ったのかも知れない。景行天皇が土蜘蛛を討ったとき、血の流れた所を血田と言うとあるが、「血田」はパイプ状ベンガラが堆積していることを示しているのかも知れない。弥生人は低温で鉄を取り出すべく色々な工夫をしたのであろう。

因みに、弥生時代の武器類鉄器に関しては、九州7県で1726点、近畿7県390点出土している。中でも大阪府は50点、奈良県にいたっては5点のみである。古墳時代に入って、ヤマト王権は何処から鉄を入手したのであろうか。景行天皇の九州遠征は史実であり、その目的の一つは倭国産の鉄の支配権を確立することにあったと考えられる。


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