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49-3.神話に出てくる「出雲」は実在した [49.神話の背景には史実がある]

『日本書紀』の神代では、高天原より追放された素戔鳴尊が出雲の国を造り、息子の大己貴神が出雲の国を治めている。高天原に君臨した高皇産霊尊は、大己貴神に出雲の国を譲るように迫り、息子の事代主神の助言を受け、高天原の勢力下に入っている。私は、高天原はナ国・イト国の地、福岡平野とその周辺であり、天照大神がナ国王、高皇産霊尊がイト国王であったと考えた。両者が共栄していたのは、BC100年からBC50年の時代である。その後、イト国がナ国を滅ぼしAD57年頃に奴国が誕生した。そして、奴国を盟主国とする倭国(奴国連合国)が成立し、奴国王が倭国王となった。その後、奴国は勢力拡大をはかり、出雲を支配下に入れたと考える。これが神話に出てくる出雲平定であろう。神話では出雲を平定したのは高皇産霊尊となっているが、時代が合わない。出雲を平定したのは、2~3世代あとの奴国王であろう。神話は歴史を短絡化している。

「48
-9.女王・卑弥呼を共立した国々」では、倭国(邪馬台国連合国)は銅剣・銅矛・銅戈文化圏の地域で、出雲・吉備が東の端の国であるとした。魏志倭人伝には「女王国より以北は、その戸数道里を略載し得べくも、その余の旁国は、遠絶にして、詳らかにすることを得べからず。次に斯馬国あり、・・・次に奴国あり。これ女王の境界の尽きる所なり。」と21ヶ国を記している。女王の境界の尽きる所の奴国は出雲の事と考える。奴国王が倭国(奴国連合国)の王であった時代に、出雲は奴国の支配下に入っていた。その後も、奴国が勢力の拡大をはかって倭国大乱が起こり、戦いに辟易した国々が邪馬台国の女王・卑弥呼を倭国(邪馬台国連合国)の王に共立する。この段階で、出雲は奴国の支配下から外れ、邪馬台国連合国の一国となったと考える。

Z30 荒神谷遺跡.png記紀の神話では出雲は重要な位置づけをされているにも関わらず、多くの歴史・考古学者は、長らく弥生時代の出雲について、弥生文化の果てる所と位置づけしていた。しかし、1984年に島根県斐川町の神庭荒神谷遺跡で358本の銅剣が出土、翌年には16本の銅矛と6個の銅鐸が出土した。また、1996年には荒神谷遺跡3.5km離れた大原郡加茂町岩倉の山中で39個の銅鐸が出土した。これらの発見により、出雲には弥生時代に大きな勢力が存在していたと考えられるようになった。

z1.甕棺編年1.png写真Z30で見るように、荒神谷遺跡の銅剣の出土地と銅矛の出土地は、荒神谷の同じ高さで7mか離れていない。これらの埋納は同時期であったと考えられる。荒神谷遺跡の銅剣は358本とも中細形銅剣で、銅矛は2本が中細銅矛、14本が中広形銅矛である。そうすれば、埋納時期は中広形銅剣の時代で、それも中細形の銅剣・銅矛に近い時代であること分かる。実年代でいえば、図Z1に示すように、弥生後期初めの桜馬場式甕棺(AD元年~75年)に比定できる。まさに、神話の出雲平定の時代である。奴国の支配に対して、在地の出雲勢力は銅剣・銅矛・銅鐸を隠匿したのであろうか。


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