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49-2.天照大神の墓は須玖岡本遺跡D地点 [49.神話の背景には史実がある]

『日本書紀』の「神代」では、高天原を治めた天照大神が素戔鳴尊の狼藉により天岩屋に籠った後に、高皇産霊尊が高天原を治め、出雲を平定し、瓊瓊杵尊を高千穂の峰に降臨させている。神話が史実をもとに出来上がったとするならば、天照大神や高皇産霊尊が高天原で活躍した時代はいつのことであろうか。天照大神が天岩屋に籠った説話は、天照大神が亡くなり、大きな石で覆われた墓に葬られたことの伝承であると考えられる。その時代は神話に出てくる、「金を採って日矛を造らせた」「鹿の皮を丸剥ぎにしてフイゴを造った」「八咫鏡を作った」という語句より、青銅器が造られていた弥生中期・後期の時代を反映していると考える。天岩屋の前に飾った八咫鏡(大きな鏡)・八坂瓊の曲玉(大きな勾玉)・五百箇の御統(沢山の玉の首飾り)・日矛(かたちを映す矛)は墓に副葬されたものを示しているのであろう。

Z28 須玖岡本遺跡復元.pngナ国の王墓とされている須玖岡本遺跡D地点の甕棺墓は、図Z28
にあるように長さ3.3m、幅1.8mの大石に覆われ、横には高さ
.2m、幅1.2mの小石が立っていた。甕棺の型式は立岩(古)(KbBC100~BC50年)で、21面以上の前漢鏡が副葬
されていた。その多くが漢鏡3期(
BC100~BC25年)の型式
であった。鏡を入手して墓に副葬するまでのタイムラグを考えると、甕棺墓の年代は
BC75年からBC50年くらいと考えられる。甕棺
には中細矛4本、細矛・中細戈・中細剣・多樋剣が各1本、壁玉片
が3個、長さ4
.8cmの勾玉1箇、菅玉多数も副葬されていた。

須玖岡本遺跡D地点の甕棺墓こそ、天照大神の墓であると思われる。甕棺を覆った大石が天岩屋で、横に立っている小石は手力男神が引きあけた岩戸に見立てられたのであろう。また、副葬されていた鏡・矛・勾玉・多数の菅玉は、天岩屋の前に飾られた品々と同じである。また、イト国の王墓とされている三雲南小路遺跡の甕棺墓は、甕棺型式と前漢鏡型式が須玖岡本遺跡D地点の甕棺墓と同じで、同時代のものであり、高皇産霊尊の墓と考えられる。高天原はナ国・イト国の地、福岡平野とその周辺であり、天照大神がナ国王、高皇産霊尊がイト国王であった。両者が共栄していたのは、
BC100年からBC50年の時代であったであろう。

Z29 皆既日食BC79年.png天照大神が天岩屋に籠られたとき、「国中が常闇となり夜昼の区別も分
らなくなった」と記紀には書いてあり、「日食」があったのではないか
と考えられている。
NASAのホームページを見ると、図Z29に示すよう
BC79年9月20日に皆既日食帯が沖縄あたりを通過している。点線は食分(欠けた割合)が50%であるから、博多あたりは90%以上欠けており、真っ暗闇に近いことが予想できる。NASAの皆既帯のコースは地球の自転速度が一定として計算されているが、実際は自転速度が変化しているので、皆既帯がもっと九州に近かった可能性もある。BC79年の皆既日食は、私が推定した須玖岡本遺跡の甕棺墓の年代とほぼ一致している。


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