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48-9.女王・卑弥呼を共立した国々 [48.「魏志倭人伝」に即して邪馬台国へ]

女王・卑弥呼を倭国王に共立した国々は、対馬国・一支国・末盧国・伊都国・不彌国・奴国・投馬国・邪馬台国の8ヶ国と「女王国より以北は、その戸数道里を略載し得べくも、その余の旁国は、遠絶にして、詳らかにすることを得べからず。次に斯馬国あり、・・・次に奴国あり。これ女王の境界の尽きる所なり。」とある21ヶ国、合わせて29ヶ国である。魏志倭人伝には「今使訳通ずる所三十国なり」とあるのは、邪馬台国と敵対している狗奴国も魏と通じていたのであろう。

Z25.銅剣・銅矛・銅鐸.jpg魏志倭人伝には、「其の國、もとまた男子を以て王と為し、住まること七・八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年」とある。女王・卑弥呼を倭国王に共立した国々は、もとは奴国の男王を倭国王に担いでいた国々でもある。これらの国々の誕生は弥生中期で青銅器文化が発展した時代と考える。弥生中期の時代は哲学者和辻哲郎氏が唱えた「銅剣・銅矛・銅戈文化圏と銅鐸文化圏」(図Z25)が、出雲・吉備を境にして存在していた。対馬国・一支国・末盧国・伊都国・不彌国・奴国は「銅剣・銅矛文化圏」に入っており、女王・卑弥呼を倭国王に共立した国々は出雲・吉備以西の「銅剣・銅矛文化圏」の国々と考える。なお、邪馬台国の日向、投馬国の薩摩からは、銅剣・銅矛が出土
していないのは、弥生後期の鉄器時代に出来た国であるからであろう。

女王・卑弥呼を倭国王に共立した国々は、弥生後期の終わりに存在していた国々であり、古墳時代の初めにも存在していた国々でもある。大和王権が全国を支配して行くなかで、地方の豪族が支配していた国々は「国造」という名のもとに、大和王権に組み込まれていったと考える。女王・卑弥呼を倭国王に共立した29ヶ国と、邪馬台国の南にあり敵対した狗奴国は、吉備・出雲より以西の九州・中国の「国造」であると考える。下記に平安時代の「国名」と「国造」を対応させて記載し、魏志倭人伝に記載された8ヶ国を当てはめた。魏志倭人伝には女王より以北の21ヶ国の国名が記載されているが、これらの国名と国造を具体的に比定出来ないので番号で示した。


国 名 国 造
[魏志倭人伝国名:戸数]
対馬国 津島県直[対馬国:千戸]
壱岐国 伊吉[一支国:三千戸]
筑紫国 筑紫[奴国:二万戸]
肥前国 末羅[末盧国:四千戸]、筑紫米多[伊都国:千戸]、松津[不彌国:千戸]、葛津直[
肥後国 火[ ]、阿蘇[ ]、天草[ ]、葦北[
豊前国 豊国天草[ ]、宇佐[
豊後国 国前[ ]、比多[ ]、大分[
日向国 日向[邪馬台国:七万戸]
薩摩国 薩摩[投馬国:五万戸]
大隅国 大隅[狗奴国:一万二千戸]
------------------------------------------------------------------------------------------
長門国 穴門[ ]、阿武[
周防国 波久岐[ ]、都怒[ ]、周防[ ]、大島[  
安芸国 安芸[
石見国 石見[
出雲国 出雲[
美作国 美作[
備後国 吉備品治[ ]、吉備穴[ ] 
備中国 吉備中県[ ]、笠臣[ ]、下道[ ]、加夜[
備前国 上道[ ]、三野[ ]、大伯[

魏志倭人伝に記載された戸数が一万戸以上の国々は、奴国(筑紫国)、邪馬台国(日向国)、投馬国(薩摩国)、狗奴国(大隅国)と平安時代の国々と一致している。卑弥呼の時代の国の大きさは、学者・研究者の想定外である。日本書紀には応神天皇22年に、吉備国を川島県・上道県・三野県・波区芸県・苑県の6県に割いた話がある。大和朝廷設立当時、岡山平野にあった国造はもともと吉備国(備前国・備中国・備後国)として一つの国造であったと思われる。魏志倭人伝に書かれた30ヶ国は、吉備・出雲より以西の九州・中国の「国造」と一致する。女王・卑弥呼を倭国王に共立した国々の東の端が、吉備と出雲であることは、倭国の歴史解明に重要な意味を持っている。

 

 


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コメント 4

ホケ老

伝の記述する「行程」からの、邪馬台国・投馬国・狗奴国については異論ナシですが・・・・
一方では、狗奴国はかなり強大な力を持ち、卑弥呼(女王国連合?)と敵対状況であった様な記述も有ります。
狗奴国が大隅半島中心の勢力だとしたとき、次の3点はどうなのか?とも考えます。
①この地にあって、女王国連合と拮抗する程の力を持ちえただろうか?
②①の力とも関係しますが、隣接し不仲であったとしても、力関係から魏へ仲裁を乞う必要があったのだろうか?
③読み落としているかも知れませんが、熊本平野中心の勢力のはどうだったのか?

追記。
a.狗奴国論ではここを四国に比定するものなども有りますが、「不仲の原因は?」との疑問を持ってしまいます。
狗奴国の場所は力を持ち得て、女王国連合のと敵対が有り得る地勢でなければならないと思っています。
b.本論とは関係ないですが、現在の長崎県の勢力はどうだったのか?と、いつも考えてしまいます。
by ホケ老 (2017-01-16 16:55) 

Kazuo MORIYA

全く独自に解析しほぼ同じ結論に達しました。このブログをみてびっくりです。
ただし、私の思っている邪馬台国の位置はもっと南です。
女王のいた邪馬台国がなぜ当時の倭国の中心である高良山あたりから離れた位置にあったのか、その意味付けに苦慮しています。
なお、狗奴国、殺馬国は倭種ではないと思います。
倭種と和種(大和)は違っていると思います。
たくさんのカテゴリーを勉強させていただき、再度コメントさせて頂きます。
by Kazuo MORIYA (2018-02-25 18:07) 

t-tomu

Kazuo MORIYA様
コメントいただき有難うございます。「女王のいた邪馬台国がなぜ当時の倭国の中心である高良山あたりから離れた位置にあったのか」について、
倭国の中心が「奴国」と考え、そして奴国の中心が筑後川の南側にあると考えておられるのならば私と同じです。奴国の強権こそ倭国大乱の原因であり、倭国の国々は盟主国が強権を発動しないように、軍事的に強国でない、家柄の良い(天照大神の子孫)邪馬台国の卑弥呼を女王に共立したと考えております。倭国の国々にとっては、邪馬台国は倭国の中心である必要はなく、邪馬台国と最も結びつきの強い伊都国が奴国を見張り、同盟に加わっていない狗奴国に対しては、邪馬台国自身が対峙している方が都合がよかったのではないでしょうか。
by t-tomu (2018-02-26 10:16) 

K.H

自身の仮説を組み上げてから6年。やっと私と同じく21ヶ国を出雲・吉備の領域に
比定した方を見つけました。伊都、投馬、邪馬台国も「ほぼ」同じです。

私の方は21ヶ国の完全な比定を完了し、既に記紀の解読を進めていますが、そちら
の説とは狗奴国の位置がまったく異なる為に記紀の解析の方向性も違っております。

私の仮説では狗奴国の位置は「その(界の尽きる所)南」すなわち近畿であり、大和
というのは倭国大乱で敗れた奴国(山門)が東征によって移動し、反撃に出た時点が
魏志倭人伝に記されていると考えています。

そちらの膨大な考察結果、非常に役に立ちます。ありがとうございます。
by K.H (2018-07-07 10:00) 

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