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48-6.投馬国へ水行二十日 [48.「魏志倭人伝」に即して邪馬台国へ]

「南至投馬国水行二十日」、水行とは海岸に沿って舟で航海する事であろう。「水行二十日」ではその距離が判らないので、場所の特定が出来ない。末盧国(桜馬場遺跡)から伊都国(吉野ヶ里遺跡)までが「陸行五百里」で距離は60kmであった。魏志倭人伝にある「五百里」は実際に計測した距離ではないだろう。歩いた日数から距離を「五百里」と計算したに違いない。中国、唐代の官制・法制について記した書、『唐六典』には1日の歩行距離は50里とある。そこで、「陸行五百里は、10日の行程で距離は60km」と定理する。ただし、60kmは現代の道路での話であり、古代に歩いた距離はもっと長い道のりであっただろう。そして、「水行は陸行の2倍進む」と定理し、「水行五百里は、5日の行程で距離は60km」と定める。この二つの定理は、投馬国のみならず邪馬台国の比定にも共通して適用する。

Z22.投馬国・邪馬台国.png当時、伊都国と仮定した吉野ヶ里遺跡の近くまで有明海がきていた。そして、伊都国に港が在った。その港から有明海を九州西岸に沿って南下すれば、20日で投馬国に至る。定理に従えば、「水行二十日」は240kmの距離である。吉野ヶ里遺跡付近から当時の筑後川河口を通り、大牟田市を通って熊本市の沖から、当時島であったと言われている宇土半島の付け根を通り、八代・水俣・阿久根市を経て川内川河口までが200km、川内川を少し遡行した鹿児島県川内市が212kmである。

定理通りに計算すると水行18日となる。距離の測定が直線的であり、沿岸にもっと沿った測り方をすれば、一割くらいは増加するだろう。川内市付近を水行20日の投馬国の都と考える。都としたのは投馬国が5万戸の戸数を持ち、奴国同様に大きな国と考えるからである。投馬国は平安時代に出来た「延喜式」に書かれた「薩摩国」、現在の薩摩半島を主体とする、
鹿児島県の西半分の領域であると想定する。


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