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48-5.奴国は東南百里、不彌国は東百里 [48.「魏志倭人伝」に即して邪馬台国へ]

Z21.奴国・不彌国.png

魏志倭人伝に書かれた諸国の比定を、伊都国を中心に放射線状の関係
として進める。「東南至奴国百里」、奴国は伊都国から東南の方向、
百里のところにある。吉野ヶ里遺跡から東南の方向は、途中に視界を
遮るものもなく有明海や筑後川がある。佐賀県の有明海沿岸を走る国
道264号線は標高4~5mで、国道に沿った一帯では貝塚が多くあ
り、弥生時代の海岸線と考えられている。筑後川の南側で標高4~5
mを求めると、西鉄天神大牟田線沿線となる。弥生時代、図Z21の
青線の内側は海であったと考えられる。


伊都国から奴国へは「陸行」で行ったとも、「水行」で行ったとも書
いていないので、百里は直線距離であろう。末盧国(桜馬場遺跡)か
ら伊都国(吉野ヶ里遺跡)までが「五百里」で60kmであった。
「百里」は「五百里」の5分の1で12kmということになる。奴国は吉野ヶ里から東南の方角に直線距離で約12kmの所にあると考える。八女市・広川町・筑後市の境にある八女古墳群は、吉野ヶ里遺跡から東南15kmの地点である。この近傍に奴国が在ったと推察する。

「47
-4.奴国の野心が倭国大乱の引金」で述べたように、奴国は糸島平野で生まれた倭国の盟主国で、筑後平野に侵出することにより、倭国大乱の引き金を引いた国であった。奴国はその都を大陸との窓口であった糸島平野(糸島市)から、青銅器生産地の春日丘陵(春日市)に、そしてコメの生産地である筑後平野に遷している。弥生時代後期後半の奴国の都は、中広・広形銅矛が13本出土した八女市吉田と18本出土した八女郡広川町藤田の近郊にあると考える。倭国の歴史から考えた奴国の都と、魏志倭人伝に記載の奴国の場所が一致する。

魏志倭人伝には、対馬国は千余戸、一支国は3千戸、末盧国は千余戸、伊都国は千余戸とあり、奴国は2万余戸とある。これらからしても、奴国の領域を筑紫国(筑前国+筑後国)とし、その都を八女市の近郊とするのも妥当である。古墳時代後期(6世紀前葉)に大和王権に反乱を起こした筑紫国造磐井の墓(前方後円墳)が八女市にある。筑紫国造磐井は奴国王の末裔であると考えている。

「東行至不彌国百里」、吉野ヶ里遺跡から東に進むと、筑後川を挟んで対岸に久留米市を見る佐賀県の東端の鳥栖市に至る。鳥栖市付近からは、整然と並べられた12本の中広形矛が発掘された検見谷遺跡(北茂安町)や、銅矛・銅鐸の鋳型が出土し、鋳造工房跡と見られる安永田遺跡がある。また、柚比本村遺跡からは吉野ヶ里遺跡の宮殿と見られる建物を超える弥生時代最大の建物跡(9
.8x16.6m)が見つかっている。鳥栖市付近を不彌国と考える。不彌国の都は安永田遺跡や柚比本村遺跡のある鳥栖市柚比町付近と考えるが、弥生後期の中広形矛が出土した北茂安町に近い鳥栖市南部かも知れない。吉野ヶ里遺跡から鳥栖市の方角は東北東に当たるが、魏志倭人伝の通りの「東」と言え、距離は15kmで「百里」と言える。


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