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48-4.卑弥呼への贈物は伊都国の港から船便 [48.「魏志倭人伝」に即して邪馬台国へ]

Z20.邪馬台国への行程1.png

魏志倭人伝は伊都国に続く国々の方角と距離を次の様に書いている。「東南奴国に至る百里」、「東行不弥国に至る百里」、「南、投馬国に至る水行二十日」、「南、邪馬台国に至る。女王の都する所。水行十日陸行一月」。なお、魏志倭人伝の原文では「邪馬壱国」となっているが、通説では「邪馬台国」とされており、私も「邪馬台国」として扱う。 伊都国以降、邪馬台国への行程について二つの考え方がある。それを図Z20図①と②に示す。一つは①のように、伊都国・奴国・不弥国・投馬国、そして邪馬台国と直列的に考える方法と、もう一つは榎一雄氏が初めて提案した考え方で、②のように、伊都国以降については伊都国を中心に放射線状に、奴国・不弥国・投馬国、邪馬
台国が関係しているという考え方である。


私はこれら邪馬台国への行程について次のように考える。まず魏志倭人伝の原文を見ていただきたい。伊都国までは距離が「至」の前にあり、奴国以降は方角が「至」の前にある。明らかに伊都国までと、それ以後では関係が違っている。
    始度一海千餘里對馬国
    又南渡一海千餘里名曰瀚海一大国
    又渡一海千餘里末盧国
    東南陸行五百里伊都國
    東南奴国百里
    東行不彌国百里
    投馬国水行二十日
    邪馬壱国女王之都水行十日陸行一月

魏志倭人伝には次の文章がある。「女王より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す。国中において刺史の如きあり。王、使いを遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、および郡の倭国に使いするや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず」。
「津に臨みて捜露し」、「津」とは「みなと、船着き場」。「捜露」とは「もちものを調べること」となっており、伊都国に港があったのである。


女王国(邪馬台国)から帯方郡に送る貢ぎ物、帯方郡から女王国への賜り物が、伊都国で陸揚げされているということは、貢ぎ物や賜り物は伊都国と女王国の間を船で運んでいることになる。伊都国以降の行程を直列的に考える場合、人は伊都国から奴国経由で不彌国へと陸行し、不彌国から船に乗って投馬国経由で邪馬台国へ行くことになる。大切な賜り物は伊都国から邪馬台国まで船で運んでいるので、不彌国からは人と賜り物は同じ船に乗ることになる。伊都国から奴国経由での不彌国への陸行の必然性が全く分からない。放射線状で考えれば、伊都国の港から人も賜り物も一緒に、邪馬台国へ船で行くことになる。放射線状の関係が魏志倭人伝の文章に即している。

魏志倭人伝に書かれた伊都国について、邪馬台国の研究者の99%が伊都国は糸島平野(糸島市)としている。伊都国を糸島平野に比定したとき、放射線状であれば、東南百里の奴国は須玖岡本遺跡のある春日市に、東百里の不彌国は糟屋郡宇美
(うみ)町にあてられるであろうが、南に船で水行する投馬国・邪馬台国は、糸島平野の南は背振山地で成り立たない。そのため、邪馬台国の研究者のほとんどが伊都国以降の行程を直列的に考えている。そして、伊都国に港があり、貢ぎ物や賜り物が伊都国と邪馬台国の間を船で運ばれていることに関しては口を閉ざしたままである。

伊都国が吉野ヶ里遺跡であれば、伊都国以降の国々が放射線状の関係であることを満足させる。特に有明海を南下して邪馬台国へ向かう状況はピッタリである。弥生時代の海岸線は吉野ヶ里遺跡から5~6kmであったそうだ。吉野ヶ里遺跡の傍を流れる田手川・城原川は現在よりも水量があり、吉野ヶ里遺跡の高床倉庫群の近くまで船が遡上でき、港があったと考える。


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