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48-2.糸島平野に伊都国は無かった [48.「魏志倭人伝」に即して邪馬台国へ]

Z14.唐津市から糸島市.png

末盧国の次は伊都国、魏志倭人伝に云う「東南陸行五百里にして、伊都国に到る」。魏志倭人伝に書かれた伊都国について、邪馬台国の研究者の99%が伊都国は糸島平野(糸島市)としている。いわゆる邪馬台国論争の近畿説・九州説、どちらの説もこの伊都国の比定は同じである。伊都国が糸島平野にあるとすると、末盧国から伊都国への方角は、「東南」は「東北」の間違いと言わなければならない。また、陸行については、図Z14に示すように唐津街道と言われる国道202号線が海岸ぎりぎりを走っているように、回り道もない陸の難所を15キロメートルも通らなければならない。伊都国には津(港)があると魏志倭人伝に記載されている。図Z15は糸島地方の地形略地図のであるが、糸島市には遣唐使船も出港した加布里という絶好の港がある。末盧国から伊都国へ行くには、船の方が速くて安全である。陸行の必然性が全くない。これらからして、伊都国は糸島平野には無かったと言える。

Z15.糸島地方の地形図.png糸島平野を伊都国とする考えが定説となった根拠は、伊都国と推定された糸島市付近が奈良時代より「怡土(いと)」と呼ばれ「伊都(いと)」と一致したことによる。万葉集5-813番に山上憶良が筑前守であった730年頃に、神功皇后を詠った歌がある。歌の前書きは「鎮懐石を詠む歌一首、筑前国怡土郡」で始まる。この鎮懐石については、712年に編纂された『古事記』には「筑紫国伊斗村にあり」と、720年に編纂された『日本書紀』には「筑前伊覩縣の道のほとりにある」と記載されてある。糸島平野を「怡土」「伊斗」「伊覩」と色々の漢字が当てはめられているが、奈良時代には「いと」と呼ばれていたことは確かである。

糸島平野が「いと」と呼ばれるようになったことについて『日本書紀』仲哀8年の記事に、筑紫の伊覩県主の先祖の五十迹手
(いとて)が船で仲哀天皇と神功皇后をお迎えに行き、「天皇は五十迹手を褒められて『伊蘇志(いそし)』とおっしゃつた。時の人は五十迹手の本国を名付けて伊蘇(いそ)国といった。いま伊覩というのはなまったものである」とある。この話は「筑前国風土記」逸文の「怡土郡」の条にもある。『日本書紀』に書かれた五十迹手の話は史実であり、糸島平野を「いと」と呼ぶようになったのは古墳時代で、弥生時代の終わりの邪馬台国の時代には、伊都国と呼ばれる国は糸島平野に無かったと考える。


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