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46-1.倭国王帥升は平原遺跡に眠る [46.倭国誕生から倭国大乱まで]

『後漢書』東夷伝には「安帝の永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願ふ」とある。建武中元二年(57年)の時に朝貢したのは倭奴国王で、安帝の永初元年(107年)の朝貢したのは倭国王である。倭国はいつ誕生したのであろうか。西暦57年に、ナ国王が後漢の光武帝に使いを遣わしている隙を突き、イト国の王がナ国を滅ぼし「奴国」が誕生した。奴国の領域は糸島平野、福岡平野とその周辺である。その後、奴国王は近隣の国々を束ね同盟を結び、倭国(北部九州)の盟主としての倭国王となり倭国が誕生した。その倭国王は65年頃亡くなり井原鑓溝遺跡に葬られたと考える。そうすると、安帝に朝貢した倭国王帥升は、井原鑓溝遺跡に葬られた倭国王の孫の代にあたると考えられる。

Y21.平原遺跡.jpg平原遺跡1号墳(糸島市)は昭和40年(1965年)に発見され、原田大六氏を中心に発掘調査が行われている。1号墓からは銅鏡39面、ガラス勾玉3個、メノウ菅玉12個、ガラス菅玉30個程度、ガラス連玉・小玉多数、ガラス耳璫2個、鉄素環頭大刀1本が出土した。1号墳は14x10mの墳丘墓で、幅2.4x深さ0.5mの周溝が周囲を取り囲んでいる。墳丘は削平されていたが、4.6x3.5mの土壙があり、中央に割竹形木棺が据えられ、棺内には朱が前面に塗布されていた。平原遺跡の1号墓の造られた年代については、弥生時代後期の中頃(西暦100年前後)とする説と、弥生時代後期後半から終末(西暦200年前後)とする説がある。1号墓からは年代を示す土器が発見されていないため、銅鏡を始めとする副葬品などから推定されている。

Y22.平原方格規矩鏡.jpg平原遺跡1号墳の鏡の内訳は、内行花文鏡7面、方格規矩鏡32面、虺竜文鏡1面である。この内の内行花文鏡4面は、径が46㎝と超大型で、弥生時代としては比類ない大きさである。このような大きな鏡は中国からは出土していないこともあって、仿製(国産)鏡とされている。岡村氏は虺竜文鏡1面と方格規矩鏡1面が漢鏡4期(前25~後50年)、方格規矩鏡31面と内行花文鏡1面が漢鏡5期(後50~100年)としている。漢鏡5期とされた31面の方格規矩鏡の銘文の中に、「浮游天下敖海」と「四」の文字が読み取れるのが5面、「浮游天下敖海」と「亖」の文字を使っているのが2面である。「四」を「亖」と表記するのは、王莽新の時代と後漢の光武帝の時代である。「亖」の表記の2面は、岡村氏は漢鏡5期としているが、私は漢鏡4期ではないかと思っている。

Y12甕棺副葬品の年代.png紀元前108年に楽浪郡が設置されるとすぐ、倭国の国々は楽浪郡を訪れ、漢鏡3期(前100年~前25年)の鏡を入手している。その漢鏡3期の鏡は、須玖岡本D遺跡と三雲南小路1号甕棺ではKb(前100~前50年)の甕棺に、立岩10号甕棺ではKc(前50年~前1年)の甕棺に埋納されている。西暦57年に後漢の光武帝から入手したであろう漢鏡4期(前25年~後50年)の鏡は、井原鑓溝遺跡のKb(後50~75年)の甕棺に副葬されている。いずれも、中国で盛況用いられている鏡を入手し、入手後伝世することなく王墓に副葬している。

107年、後漢の安帝に生口160人を献じた倭国王帥升は、多量の鏡を賜ったに違いない。その鏡は漢鏡5期(後50~100年)の鏡であったと思われる。倭国王帥升が手に入れた鏡は、伝世されることなく帥升の墓に副葬されたと考える。漢鏡5期の鏡が32面も副葬されていた平原遺跡1号墳こそ、倭国王帥升の墳墓であり、その年代は西暦125年前後の築造と考えられる。方格規矩鏡や内行花文鏡を中心にとする漢鏡5期の鏡が、北部九州において3面以上出土した墳墓は、平原遺跡1号墳以外にはないことが、それを証明している。

平原遺跡5号墓は、鏡が多量に出土した平原遺跡1号墓の西側30mにある。5
.6x5.2mの墳丘墓で、墳丘は削平されていて高さは不明だが、幅約65㎝x深さ約34㎝の周溝があり、2m角の墓壙の中央に木棺が据えられていた。主体部からの出土品はなかったが、同地から漢鏡4期(前25~後50年)の異体字銘帯および方格規矩鏡が出土している。5号墓の築造時期は、周溝から出土した土器や追葬された甕棺の型式が桜馬場式であることから、中期末から後期初頭と考えられており、私の編年表では西暦1~75年にあたる。平原遺跡5号墓は井原鑓溝遺跡に葬られた倭国王の息子と考えても齟齬はないだろう。

魏志倭人伝には、「其の国(倭国)、もとまた男子を以って王となす。住まること七八十年、倭国乱れ、相攻伐すること年を歴たり、すなわち一女子を共立して王となし、名づけて卑弥呼という。」とある。
七八十年続いた倭国の男子王は、井原鑓溝遺跡・平原遺跡5号墓・平原遺跡1号墓に葬られた三代の倭国王であろう。平原遺跡1号墓に眠っていたのは、107年に後漢の安帝に朝貢した倭国王帥升であると考える。


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