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45-6.ナ国王は金印を手にしていない [45.金印の謎を解く]

Y18 井原鑓溝鏡拓本.png

井原鑓溝遺跡の鏡には写真18のように、「漢有善銅」の銘が読み取れる方格規矩鏡がある。岡村秀典氏は「漢有善銅」の「漢」は前漢王朝のこととしている。私が台湾の故宮博物館で購入した『中華五千年文物集刊 銅鏡篇上』には、浙江省紹興縣出土の「漢有善銅博局紋鏡」が東漢(後漢)早期の鏡と記載されている。「博局紋鏡」とは方格規矩鏡のことである。この鏡の銘文は「漢有善銅出丹陽・・・左龍右虎備旁 朱爵玄武順陰陽・・・」である。「漢有善銅」・「武順陰陽」の銘は井原鑓溝遺跡から出土の鏡にあったものである。鏡の銘文を写真で見ると「四」の字は「亖」の字であった。「亖」の字は「桼」と同じように、王莽代に用いられた「四」の別表記である。


Y19.漢有善銅.jpg中国の甘粛省酒泉にある居延烽燧遺跡から発見された前漢代・後漢代の木簡「居延漢簡」には、光武帝建武7年を示す「建武年6月」の紀年銘が書かれた木簡がある。中国社会科学院歴史研究所の「謝桂華先生木簡学成就」というWebサイトを見ると「とかの字は、王莽時代に使用が開始され、東漢(後漢)の光武帝建武年間まで継続使用された。」と書かれてある。その証拠として「建武五年月」という木簡が存在していると書いてある。これらより井原鑓溝遺跡の方格規矩鏡の中にある「漢有善銅」銘文の鏡は、後漢の光武帝建武年間(西暦25~55年)に製作されたものである鏡と言える。岡村氏の漢鏡4期(紀元前25~後25年)は(前25~後50年)であり、漢鏡5期(後25~100年)は(後50~100年)である。

 『
考古資料大観 第10巻』の「考古資料から見た弥生時代の暦年代」で寺沢薫氏は、井原鑓溝遺跡の甕棺はKb(後50~75年)と推定されている。これは「末盧国の王墓」と言われている桜馬場遺跡(唐津市)1号甕棺(Ka)から出土した、漢鏡4期の方格規矩鏡2面よりも、井原鑓溝遺跡出土の方格規矩鏡の方が新しい形式と見ているからだ。桜馬場遺跡1号甕棺出土の方格規矩鏡は、王莽が実権を握っていた前漢末の元始5年(西暦5年)に入手した鏡であろう。井原鑓溝遺跡の鏡は、ナ国が建武中元2年(西暦57年)光武帝より金印と一緒に賜った鏡であると結論付けることが出来る。

金印に刻まれた「委奴国王」を「委奴
(イト)国王」と読む学者も多い。イト国と読めば、井原鑓溝遺跡の鏡が光武帝より賜った鏡であることの説明がつく。しかし、イト国からは井原鑓溝遺跡に続いて、王墓クラスの墳墓が平原5号墳、平原1号墳と続く。金印がイト国に下賜されたものならば、これらどれかの王墓から金印が出土したはずであり、志賀島から出土した説明がつかない。志賀島から出土した金印と井原鑓溝遺跡から出土した鏡は、ナ国に下賜されたものに違いない。そうであれば、光武帝より下賜された鏡は、イト国がナ国より奪ったという結論になる。

Y20.光武帝金印と鏡.pngイト国王は、ナ国王が後漢の光武帝に使いを遣わしたと知ると、先を越されたと脅威を感じたであろう。ナ国の使いは光武帝に自らを「大夫」と名乗ったようにナ国の重臣であった。ナ国の重臣が後漢の都・洛陽に行っている間をついて、イト国王はナ国を滅ぼし「奴国」が誕生したと考える。ナ国の滅びたことを知らず帰国した重臣は、イト国に船を接収されて鏡を奪われた。重臣は金印のみを持って脱出し、志賀島に隠匿したと推理する。ナ国王は金印を手にすることが無かったのである。

こう考えると、金印の出土地が志賀島の狭隘な場所で、金印のみが石で囲われてあったことも、井原鑓溝遺跡から光武帝建武年間の鏡が出土することも、そして、ナ国の領域においては桜馬場式甕棺(
Kb:後50~75年)の時代の王墓相当する墓がなく、漢鏡4期(前25~後50年)の鏡が出土しないことなど全ての説明が付く。


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