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45-5.ナ国王は光武帝から鏡を授かったか [45.金印の謎を解く]

西暦57年に後漢の都・洛陽に使いを遣わしたナ国王は、何を目的として朝貢したのであろうか。ひとつは、倭国王となるために後漢の後ろ盾を願ったと思われる。光武帝は「漢委奴国王」の金印を下賜することで、その願いをかなえたのであろう。ナ国王のもうひとつの願いは、威信財としての鏡を賜ることであったと考える。光武帝が鏡を授けたとするならば、その鏡は岡村氏の分類で漢鏡4期(前25~後25年)、あるいは漢鏡5期(後25~100年)の鏡と考えられる。

Y17 糸島平野の王墓.pngしかし、ナ国の領域にある地域では、光武帝朝貢以後の桜馬場式(Kb:後50~75年)と三津永田式(Kc:75~100年)の時代の甕棺からは、漢鏡4期の鏡は1面も出土していない。ただ、漢鏡5期の内向花文鏡が飯氏馬場遺跡(福岡市)7号甕棺(Kc
から1面出土しているだけである。ナ国の領域から出土していない
漢鏡4期の鏡が、「イト国の王墓」とされる三雲南小路1号甕棺の
すぐ近くにある井原鑓溝遺跡から方格規矩鏡が21面以上出土して
いる。井原鑓溝遺跡の鏡は、光武帝より賜った鏡ではないかと、
私は考えている。

1822年(文政5年)に三雲南小路1号甕棺が発見された時、筑前藩の国学者青柳種信は現場に駆けつけ、聞き取り調査を行っている。その中で、40年前に三雲南小路からほど近い井原鑓溝(糸島市)で、甕棺から多量の鏡と刀剣・巴形銅器が出土していたことを聞き出した。幸い漢鏡と巴形銅器は残っていたため、それらの拓本を採り、発見の経緯を著書『柳園古器略考』・『筑前国怡土郡三雲村古器図説』に記載している。それらによると、鏡は21面以上、巴形銅器は3点以上になる。

Y18 井原鑓溝鏡拓本.png京都大学の梅原末治氏は1931年に、掲載されている35個の鏡の拓本から18面の鏡を複元している。これらの鏡は全て方格規矩鏡である。この拓本からは、「玉英飲澧泉」・「桼言之」・「漢有善」・「新」・「武順陰陽」の銘文が読み取れる。岡村秀典氏は『三角縁神獣鏡の時代』の中で、「漢有善銅」の「漢」は前漢王朝、「新有善銅」の「新」は王莽の新王朝を指し、また「桼言之紀」の「桼」は王莽代に用いられた「七」の別表記であることから、井原鑓溝遺跡の鏡は紀元前後から王莽の新代にかけての時期(漢鏡4期)に位置づけられる。この鏡群には後漢代に下るものがふくまれず、型式にまとまりがあるため、王莽の新代に楽浪郡から一括の状態で贈与され、その人物の死とともに副葬されたものと考えられる。その時期は1世紀第1四半期(紀元1~25年)であると述べている。

『後漢書』王莽伝には、王莽が実権を握っていた前漢末の元始5年(西暦5年)に「東夷の王、大海を渡って、国珍を奉ず」とある。「大海を渡る」とすることから、東夷の王は倭国の王とされている。この時、鏡を貰ったとすると、それは漢鏡3期(前100~前25年)、あるいは漢鏡4期(前25~後25年)の鏡であろう。岡村氏は「東夷の王」を井原鑓溝遺跡に葬られたイト国の王と考えておられるのであろうか。そうなると、ナ国王は光武帝より鏡を授からなかったことになり、井原鑓溝遺跡の21面以上の鏡は光武帝より賜った鏡とする、私の考えは否定されてしまう。


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