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41-8.横穴式石室は黄泉の世界 [41.古墳時代の3期区分を考える]



K23市尾墓山古墳.jpg畿内型横穴式石室(以後、横穴式石室と呼ぶ)が全国的に普及したということは、前方後円墳が全国的に拡がったことと同じ意味合いを持ち、大和王権が関わっているように思える。大和王権に関わりがあると考えられている横穴式石室の初現は、奈良県高取町にある墳長70mの前方後円墳の市尾墓山古墳であり、円筒埴輪Ⅴ式・須恵器MT15・TK10の時代に造られている。横穴式石室は奥行5.9x幅2.5x高さ2.9mで自然石を小さな持ち送りで8~10段積み上げ、天井石5枚で覆っている。片袖型の横穴式石室で3.6x1.8x1.7mの羨道を持つ。玄室内部には刳抜式の家形石棺(2.7x1.3x1.4m)が一基を安置されている。



市尾墓山古墳の大きな画期は、自然石の積み上げで大きな石室空間を造っていることだと考える。石室空間について、円筒埴輪Ⅱ式の時代の大型前方後円墳7基の竪穴式石槨と比較した。これら7基は、奈良のメスリ山古墳・佐紀陵山古墳・巣山古墳、大阪の津堂城山古墳、岡山の金蔵山古墳、滋賀の安土瓢箪山、山梨の銚子塚古墳で、平均墳長は190mであった。竪穴式石槨の平均寸法は、長さ6.6x幅1.3x高さ1.2mで、その石槨の空間(容積)は10.3㎥である。市尾墓山古墳の横穴式石室の空間は35.6㎥であり、竪穴式石槨の3.5倍の大きさである。

K24石室形態と容積.jpg竪穴式石槨から横穴式石室への変化は、木棺や石棺を埋葬する「石槨」から、死者が死後に過ごす「石室」への変化であり、来世観(黄泉の世界)の変化であると考える。表24に竪穴式石室、九州系横穴石室、横穴石室の石室容積を記載した。長方形の石室の容積は高さの1/3を合掌型として、正方形の石室の容積は高さの1/3がドーム(半楕円球)になるとして計算している。北部九州型石室の容積の平均値は15.1㎥で竪穴式石槨の平均の1.5倍ある。これは追葬することを目的として造られた石室であると考えられる。

熊本の井寺古墳は小さな円墳であるわりに、石室の容積は18.9㎥と北九州型石室より大きい。井寺古墳は装飾古墳として有名で、羨門・羨道の側壁や石障に直孤文や同心円文などの図柄が書かれてあり、赤・青・白・緑の色で塗られている。熊本を中心に九州に広がる装飾古墳には、死者が死後に過ごす「石室を飾る」という来世観(黄泉の世界)があったと考える。岡山の千足古墳の石障に直孤文が描かれている。これは肥後型石室の影響であり、死者が死後に過ごす「石室を飾る」という来世観(黄泉の世界)が伝わっていたと思う。千足古墳の石室が19.7㎥と大きいのも「死者が死後に過ごす石室」の思いがあったのであろう。

畿内で作られた横穴式石室は、その来世観(黄泉の世界)が「石室を飾る」という形でなく、「死者が死後に過ごす石室」の思いが強く、大きな石室を造るという形で表わされたと考える。初期の横穴式石室には数多くの須恵器や土師器が副葬され、それらの土器の中に貝殻や魚の骨などがあることから、死者に食物を供していたと考えられている。その来世観(黄泉の世界)が畿内より全国に広がり、横穴式石室が造られる古墳時代後期が到来したと思う。

ただ、筑後・肥後を中心とする九州では、近畿系の横穴式石室が造られるようになってからも、「石室を飾る」との思いが綿々と伝わり、福岡県桂川町にある王家古墳(前方後円墳:墳長86m)の奥行K25王家古墳の壁画.jpg.2x幅3x高さ3.6mの石室(玄室)に見られるような、「黄泉の世界」が描かれるようになった。このような装飾古墳は北関東まで伝わっている。しかし、全国に拡がったのは、大きな石を積み上げて造る堅牢な横穴式石室である。扁平石を大きな持ち送りで積み上げて造る北部九州型横穴石室は、多くの古墳で天井が崩落している。このことを古代人は知っており、「黄泉の世界」も安心・安全な石室を求め、最終的には巨石を積み上げた横穴式石室が誕生したのであろう。


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