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41-1.古墳の研究者を襲った“激震” [41.古墳時代の3期区分を考える]

古墳を見学することが多いが、そこに立っている案内板には必ずと言ってよいほど、「この古墳は○世紀の古墳である」と絶対年代が書いている。古墳前期や古墳後期などの相対年代がある場合は、○世紀の後ろにカッコ付きで書かれていることが多い。弥生遺跡の案内板はそれとは逆で、弥生前期や弥生後期の後ろにカッコ付きで○世紀と書いている。確かに、絶対年代が書かれてある方が一般の人には時代のイメージが湧き易いのであるが、考古学者にとっては絶対年代の比定は簡単なことではないはずだ。それでも、○世紀の表現が何の躊躇もなく使われるのは、古墳時代(前方後円墳の時代)の前期は4世紀、中期は5世紀、後期は6世紀という定説が長年に渡って信じられてきたからだと思う。

 

2009年5月の考古学協会総会で、国立民俗博物館が炭素14年代測定により、箸墓古墳の築造年代が240年から260年であると発表した。この発表は古墳時代の研究者にとって、その年代観が少なくとも30年は遡る“激震”であったと思う。発表の2日前に朝日新聞がその内容を報道したこともあって、総会は紛糾したようである。発表から15年経つが、古墳時代の始まりが3世紀中ごろまで繰り上がることは認められてきたようだ。

 

古墳時代の研究には、もう一つ“激震”が襲っている。2006年3月、宇治教育委員会と奈良文化財研究所は、宇治市街遺跡から出土した須恵器について、「4世紀後半のもので最古級と見られる」と発表した。一緒に出た板材の伐採年代が、年輪年代測定法と炭素14年代測定により389年と導かれ、須恵器の様式で最も古い「大庭寺式」であつたことから判断したという。「渡来人が技術を伝えた須恵器の生産開始時期は5世紀前半とされてきたが、定説を遡ることになる」と記してあった。

 

奈良文化財研究所は、この発表の10年前の1996年に、平城宮朝集殿下層の溝から土師器と共に出土した樹皮直下層の残るヒノキ材が、年輪年代法により412年と判定した。少し離れた同じ溝から土師器とTK73の須恵器片が以前に出土しており、両方の土師器の特徴は共通していることもあって、これらより、412年にはTK73の須恵器が存在していたことが明らかとなった。この事実が大きく取り上げられるようになったのは、宇治市街遺跡から出土した須恵器(大庭寺式)の年代が判明してからである。

 

須恵器の編年からすると、大庭寺式(TG232)に続くのがTK73の型式であり、須恵器の生産開始の揺籃期にあたるTG232の時代が4世紀末、須恵器の生産が本格化し、その流通が全国に広がったTK73の時代が5世紀初めとなる。須恵器は古墳時代の年代を決定する重要な指標であり、その年代が、それまで考えられていたよりも約30年遡ることになることは、研究者にとっては“激震”であったと思う。古墳を研究されている研究者の方々は、この二つの“激震”をどのように受け止めておられるのか興味が湧く。

 

K12.仁徳陵編年.jpg箸墓古墳の築造年代が240年から260年であるということは、箸墓古墳が卑弥呼の墓である可能性が高まったということであり、須恵器のTK73の年代が5世紀初めになることは、438年に「倭王讃死し、弟珍立つ、珍遣使献ず」(宋書)とある「讃王」の墓が、仁徳天皇陵古墳の可能性が高まるということだ。図K-12の「百舌鳥・古市古墳群の編年」は、近つ飛鳥博物館の2011年の特別展『百舌鳥・古市の陵墓古墳 巨大前方後円墳の実像』の冊子にある表であるが、TG232が4世紀末、TK73は4世紀初めとなっており、須恵器の年代観は改められている。百舌古墳群にある仁徳天皇陵古墳の年代を前方後円墳図形のくびれ部の年とすれば435年であり、「倭王讃」の亡くなった年に近いことが分かる。


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名も無き人

なぜ、卑弥呼や倭の五王を古代天皇家の王に比定できると言えるのでしょうか?漢鏡や銅矛・銅剣という大陸由来の鏡や戦の象徴と言うべき武器型青銅器の存在、弥生時代の王墓から見つかった最古の三種の神器などに対する言及がほとんど無いのはなぜですか?また、古墳に備えられていたのは何も埴輪や土偶に限ったものではありません。石馬・石人や豪奢な副葬品を伴う装飾古墳に関する言及もしてください。倭の五王に関してなんですが、宋書の記述にある使持節都督や開府儀同三司、倭王武の上表文に対する考察を書いてください。
by 名も無き人 (2014-08-22 09:00) 

t-tomu

私は邪馬台国は日向より大和に遷都したと考えています。日本書紀は神武天皇が大和で建国した年を、紀元前660年としていますが、その編年は900年歴史を長くしていると考えます。「900-660=240」、卑弥呼が魏に使いを遣わしていた頃に、神武天皇が大和に建国したことになります。卑弥呼が狗奴国(大隅半島)との戦いで亡くなった後、大和の箸墓に葬られたと想像しております。このあたりは、カテゴリー「11.邪馬台国は大和に遷都」をお読みいただければ、私の考えが分かるかと思います。また、「倭の五王」につきましては、「18.倭の五王を解く」に、ご質問の答えがを書いていると思っています。
by t-tomu (2014-08-22 22:13) 

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