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40-5.打虎亭漢墓は前方後円墳の源流 [40.前方後円墳の起源]

打虎亭漢墓の墓室は地下にあり、西側の1号墓の墓室には、豆腐の製造工程が画像刻石されている。『健康を食べる豆腐』を共著で出版された、橿原考古学研究所所長の菅谷文則氏は、「打虎亭1号漢墓は、日本においても昭和50年代に、しばしばその墳丘が日本の前方後円墳に類似していることから、前方後円墳の起源は打虎亭1号・2号漢墓であると報道された。その後、中国の王仲殊がこの見方を打ち消し、二つの円墳が後の耕作によって連接されたのであるとしたが、実地調査した筆者には、そのように見えなかった。やはり当初からの前方後円形に近い墳丘であったと考えてよい。」と書かれている。 

私が2号墓の墓室を見学している時、打虎亭漢墓の美人の案内嬢は私に向かって、日本の方ですかと聞き天井の璧画を指差して説明を始めた。そこには、赤い褌をした二人の男がまさに相撲をとっていK10相撲璧画.jpgる壁画が書かれてあった。そして、相撲の原点が中国の後漢に存在していたのではないかという説があると説明してくれた。日本書紀には垂仁天皇の時、出雲出身の野見宿禰が当麻蹶速と相撲をとったとある。桜井市大字穴師に相撲神社があり、二人が相撲を取ったと所とされており、祭神は野見宿禰である。相撲神社は箸墓からそれ程離れていない。打虎亭漢墓と箸墓が結びついている。
 

打虎亭漢墓は洛陽と許昌の中間にある。この許昌は220年曹操の息子の曹丕が漢王の献帝より帝位を禅譲した儀式が行われた地である。魏の文帝(曹丕)は洛陽に都をおいたが、許昌に離宮をおきたびたび訪れている。また文帝の息子の明帝は、232年に許昌に壮大な景福殿という宮殿を建て、たびたび洛陽から行幸している。
 

卑弥呼の使いの難升米と都市牛利は、魏・呉・蜀の争いが激しく行われているさなか、魏の都である洛陽を訪れ、景初2年12月には明帝に拝謁している。魏は倭国に、漢の正当な継承は魏であることを認識させるために、禅譲の儀式が行われた授禅台を見せるべく、難升米と都市牛利を許昌宮の景福殿に案内したと考える。その道中で難升米と都市牛利は、打虎亭漢墓の墳丘を見たであろうと想像する。打虎亭漢墓の墳丘を見たのは正始4年(243年)に洛陽を訪れた卑弥呼の使い、伊声耆・掖邪狗等であったのかも知れない。
 

いずれにしても、卑弥呼が亡くなる数年前に、邪馬台国の重臣が打虎亭漢墓の墳丘を見て、それが卑弥呼の墓・箸墓の築造につながり、魏から下賜された三角縁神獣鏡を副葬する古墳時代が始まったと考える。最古の前方後円墳である箸墓は、方(円)周溝墓の陸橋部の発達、吉備の楯築墳丘墓と特殊器台、出雲の四隅突出型墓の葺石など、色々の要素の上に、打虎亭漢墓の墳丘形状と三段築が加わり誕生したと考える。

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