SSブログ

40-4.打虎亭漢墓を訪れる [40.前方後円墳の起源]

1994年9月、私は仕事で河南省許昌市を訪れた。この許昌市は、魏の国の始祖である曹操が、漢の最後の皇帝を擁して都を構えた所である。私は休みの一日を利用して130km離れた洛陽へのK8打虎亭漢墓見取図.jpg日帰り旅行を行い、帰り道その途中にある打虎亭漢墓を訪れた。私は打虎亭漢墓の墳墓の形を観察し、前方後円墳との比較をしたいと思っていたが、残念ながら前回見たのは3月で、車窓からでもその姿を捉えることが出来たが、今回は日も暮れかかり、また墳墓に草木が生い茂っていたので後円部の三段も前方部の形状もはっきりと判らなかった。しかし、墳墓の周辺を説明した1m角の絵図に書かれた墳墓の形は、手鏡型の前方後円墳であった。 

当時私が書いた文章は、「打虎亭漢墓は東西に二つ存在する円墳が連なっているとされているが、現在墳丘のあるのは西側の1号墓で、東側の2号墓は現在地下にある墓室だけで、地上部には墳丘は存在しない。2号墓の墓室は、1号墓の墳丘の前方部端から90度、約20m外れた位置の地下にある。2号墳の墳丘が何時、どうして消失したか聞き出すことは出来なかった」と書いている。この文章からすると、手鏡形の前方後円墳に見えるのは1号墳のことになる。『世界の大遺跡、古代中国の遺産』にあった文章では、後円部に相当するのが1号墳で、前方部に相当するのが2号墳とあり、私の文章は、それとは大きく違うと今になって気が付いた。
 

「打虎亭漢墓」の資料を探す内に、日本の若者(?)が2003年に中国を一人旅した「中国旅行」というブログ(
http://www.h7.dion.ne.jp)に行きあたった。そして彼が私と同じ混乱に陥っていることが分かった。彼の文章と写真を借りて、打虎亭漢墓を説明してみる。
「資料には『両墓は墳丘を連ねている』と書いてあるけれど記憶にない。 墓の北面に立派な盛土があった。しかし写真を見ても墓の入口と盛土は接してないし、地下の石室も盛土の下までは達していないと思う。 もうひとつの墓の入口はもう完全に離れてる。ひょっとしたらもっと低くて目立たない墳丘があったのだろうか? それにしても立派な盛土だ。前方後円墳にそっくりだ。観察力不足が悔やまれる。」  

K9打虎亭漢墓平面図.jpg「写真を見ながら記憶を辿って平面図を書いてみた。
図の上⑤に切れているもうひとつの石室はどっちの方向に延びていたか記憶にないので描かなかったけれど、こちらの方が石室が広くて絵も彩色で華やかだった。 墳墓入り口で売っていた小冊子の漢字を眺めていると、『ふたつの墓は30mの距離にあり、南向きに並んでいる。両墓とも石室の構造は基本的に同じである。』とあるので、図の入口を入ってすぐ西方向に、正面の古墳と同じ方向に階段を下りたのかもしれない。ざる頭が悔やまれる。」  
K①打虎亭漢墓.jpg②K打虎亭漢墓.jpgK③打虎亭漢墓.jpg








図の番号はK④打虎亭漢墓.jpg写真の番号である。1号墓の地下の墓室の入口が③であり、2号墓の墓室の入口は図の⑤の方向となり、私の文章と同じである。手鏡形の前方後円墳に見えるのは1号墳のことで、2号墳の墳丘は消滅しているのであろう。そして彼は「実際、前方部から後円部に登ってみて、形としては日本の前方後円墳と相似形であるように感じた。」と書いている。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。