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40-2.纒向型前方後円墳・前方後円墳 [40.前方後円墳の起源]

K4石塚古墳.jpg方形周溝墓ばかりでなく円形周溝墓も存在しる。摂津では弥生終末期の陸橋部のある円形周溝墓が多数発見されている。形状から言えばまさに前方後円墳の祖形と見え、箸墓の近くにある纒向石塚(墳丘長96m)に代表される纒向型前方後円墳に繋がるものと思われる。纒向型前方後円墳は前方部の長さが後円部の径の半分で、前方部の墳丘高さが非常に低い特徴を持ち、南は鹿児島県から北は福島県まで、箸墓古墳築造以前の庄内式の時代、あるいは箸墓古墳と同じ布留0式の時代に造られている。 


K5纒向型前方後円墳044.jpg「纒向型前方後円墳」の命名をされた寺沢薫氏(纒向研究所所長)は、著書『日本の歴史02 王権誕生』講談社の中で、纒向型前方後円墳について次のように説明している。「前方後円墳の起源である纒向型前方後円墳は、二世紀末の楯築墳丘墓をもとに、三世紀前半のヤマト王権の王都纒向で誕生した。その小規模のものが、王権に加わった各地のオウ(王)たちにとり入れられていった。」と述べている。楯築墳丘墓とは、吉備にある円丘の前後に突出部のある全長83mの弥生墳丘墓である。
 

「弥生時代の方(円)形周溝墓の周溝の一辺中央が切れて、埋葬儀礼の時の通路となり、儀式が整備されるにしたがって通路が徐々に発達し、ついには前方後円墳や前方後方墳になる、という機能論的かつ自然発生的な考えだ。だが、実際には、通路としての自然発生的な小規模の突出は、墳形を問わずどこでも起こっているし、前方部の発達は必ずしも時間を追って進行していない。纒向型前方後円墳のように、前方部の長さが後円部に向かってスロープでつながるものは明らかに違う種類である。通路としての陸橋部や突出部が、前方部にまで発達するためには別の大きな要因があるはずだ。」と述べている。
 

寺沢氏は『晋書』武帝紀の泰始二年(266年)に書かれた「倭人来たりて方物を献ず。円丘方丘を南北の郊外に併せ、二至(冬至と夏至)の祀りを二郊に合わす」の文章を引き合いに出している。円丘は洛陽の南の郊外にあり、皇帝が冬至に天を祀る円い丘のことで、方丘は洛陽の北の郊外にあり、皇帝が夏至に地を祀る四角い丘のことである。寺沢氏は、倭国の遣使たちが、天子が洛陽の郊外において天地を祀った祭の場に立ち会ったことは想像に難くないとして、そこで見た円丘と方丘が、定型化前方後円墳である箸墓古墳を仕立て上げたと考えておられる。そして、最古の前方後円墳である箸墓古墳の成立を266年以降とされている。寺沢氏は、纒向型前方後円墳が前方後円墳の起源であるとしながらも、箸墓との落差が大きいことが気になっておられるようだ。

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