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40-1.方形周溝墓から前方後方墳 [40.前方後円墳の起源]

古墳時代は最古の大型前方後円墳である箸墓古墳(墳丘長276m)の築造から始まると考えられている。国立民俗博物館は、箸墓古墳周辺から出土した土器に附着した炭化物を炭素14年代測定により、箸墓古墳の築造年代が240年から260年であると、平成21年に考古学協会総会で発表し、翌々年の研究報告にその詳細を掲載した。炭素14年代測定の考古学への応用は、それまでに色々と発表されているが、もうひとつ信頼性に欠けるものであったが、国K1箸墓古墳.jpg立民俗博物館のチームは、日本産樹木の年輪に基づいた炭素14年代の較正年代と、考古学で編年が明らかにされている土器に附着した炭化物の炭素14年代をマッチングさせ、箸墓古墳の築造年代を確定した。箸墓古墳の築造年代が240年から260年であるということは、箸墓が248年頃に亡くなった邪馬台国の女王・卑弥呼の墓の可能性が高くなってきたことになる。箸墓古墳が卑弥呼の墓であるかどうかは別として、突然出現した巨大な前方後円墳の起源について考えて見たい。 

K2方形周溝墓.jpg前方後円墳の起源は弥生時代の墳丘墓に求められている。畿内では弥生時代の前期から方形周溝墓と呼ばれる墓が造られている。これは幅1~2mの溝を方形に掘り、その区画された所を土盛し墳丘を作っており、方形低丘墓とも呼ばれている。この方形周溝墓は弥生後期には、九州から北関東・東北地方まで拡がっており、その規模も大型化して、一辺が25m程のものも出て来る。この周溝の一部が途切れ陸橋となり、墳丘と外部が繋がってくる。形状から言えばまさに前方後方墳の祖形と見える。
 

この前方後方形の墳丘墓が伊勢湾沿岸部で多数発見されている。愛知県埋蔵文化財センター副所長の赤塚次郎氏は、「前方後方型墳丘墓から前方後方墳への変遷をたどることができる。前方後方墳は前K3前方後方墳.jpg方後円墳の亜流ではなく、伊勢湾沿岸部で独自に誕生し、美濃平野から東日本に拡散して行った。尾張は邪馬台国に敵対した狗奴国であった」という説をとなえている。確かに、美濃平野から東日本には前方後方墳が多く存在し、伊勢湾沿岸部の特徴的な土器・S字甕も多く出土している。

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コメント 1

名も無き人

箸墓を卑弥呼の墓に比定する根拠は何ですか?この古墳や巻向遺跡は周囲の弥生集落が衰退・滅亡した頃、突然に出現しています。ところが、卑弥呼は共立された女王です。共立されたということは王の人事権に介入できる有力な勢力が存在した可能性が高いと思います。周囲の勢力を駆逐する能力があった巻向が王の人事権に介入される由縁なんて皆無でしょう。さらに卑弥呼の死後、男王が位に就きますが、また内乱が起こります。次に壱与が共立されました。周囲と隔絶した勢力となることは邪馬臺国には不可能な環境だったと思いますが?
by 名も無き人 (2014-08-21 13:22) 

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