SSブログ

39-10.粟田真人が『書紀』の天皇諡号を決定 [39.『風土記』は史実を語っているか]

和銅5年(712年)太安万侶が『古事記』を撰上した翌年に、風土記編纂の官命が出され、その翌年に紀清人と三宅藤麻呂に対して国史撰述の詔勅が下されている。このことは、『古事記』が国史として評価されなかったからだと考える。『日本書紀』には中国の史書、漢書・後漢書・三国志が引用されている。それからすると、朝廷(藤原不比等)には国史というもののイメージがあったと思われる。『古事記』に記載されている内容は、天皇の系譜と歌謡が多く、国の歴史を伝える記事が少なく、中国の国史に比較して見劣りがするものだと判断されたのであろう。だから、漢書・後漢書・三国志に負けない国史を作ろうと考えたに違いない。不比等が天皇の権威を高めるために、『日本書紀』の編纂を行ったのではないと考える。また、『日本書紀』が『古事記』について、一切触れていないのはこの為であろう。 

和銅元年(708年)から筑紫大宰師の任務についていた粟田真人は、和銅6年(713年)に風土記編纂の官命が出ると、筑紫11ヶ国の風土記を霊亀元年(715年)5月までに述作した。翌年には粟田真人に国史編纂に参画するようとの勅命を受け、書き上げた筑紫11ヶ国の風土記を持って大和に帰任したと想像する。不比等は粟田真人と共に大宝律令の撰定に携わり、真人の文章能力も知っており、また、遣唐使執節使として出向いた唐で、則天武后に「真人は好く経史を読み、文章を解し」と言わせたことも聞き及んでいたので、『日本書紀』の編纂を粟田真人に任せたと考える。
 

『日本書紀』の述作を行ったのは、正三位の粟田真人、従五位下の山田史御方、従六位上の紀清人、正八位下の三宅藤麻であり、担当の範囲を山田史御方が神代・神武~安康紀、粟田真人が雄略~天智紀、紀清人が天武紀、三宅藤麻呂が持統紀とした。(参照「38
-8.『日本書紀』の述作者」)。述作を始める前に、太安万侶が『古事記』に定めた天皇名の和風諡号や宮名を、真人が好字を使って改めた。当時、太安万侶は存命で官位は正五位上であったが、真人の官位は正三位で6階級上位であったので、太安万侶に配慮することなく諡号を決定した。真人は筑紫の風土記に書いた天皇名・宮名をそのまま採用し、また、山田史御方は、真人の書いた筑紫の風土記の記事を引用した。 

粟田真人は『日本書紀』が完成した時点で「序」を書き、粟田真人名で天皇に撰上する予定であったが、完成の前年の養老3年(719年)2月に亡くなった。山田史御方・紀清人・三宅藤麻ではその任は役不足であり、そのため『日本書紀』は「序」が書かれることなく、養老4年(720年)5月に『日本書紀』の編纂に関わりのなかった舎人親王により撰上された。このように考えると、『風土記』の疑問点も、『日本書紀』の疑問点も、年代の齟齬なく、記述に齟齬なく解決することが出来る。まさに「事実は小説より奇なり」である。
 

これで甲類九州風土記が『日本書紀』より以前に書かれていたということが証明できた。「九州風土記」について整理すると下記のようになる。
    「乙類九州風土記」→『古事記』→「甲類九州風土記」→『日本書紀』
「乙類九州風土記」には、「息長足比賣命、新羅を伐たむと欲して、軍を閲たまひし際」と神功皇后の新羅討伐の話が出て来る。また、『豊後風土記』に書かれてある景行天皇の筑紫巡幸の話は『古事記』には出てこない。これらのことより、景行天皇と神功皇后は実在し、その伝承されていた逸話が「九州風土記」に記載されたと考えられる。『風土記』も『日本書紀』も創作・捏造された歴史を書いている書ではなく、伝承された歴史を書いた史書である。 
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。