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39-9.甲類風土記の述作者は粟田真人 [39.『風土記』は史実を語っているか]

『日本書紀』が甲類風土記を参照して書かれたことを証明したならば、景行天皇・日本武尊・仲哀天皇・神功皇后の登場する『日本書紀』に書かれた歴史は、創作・捏造された歴史でなく、伝承された歴史であると言えると思う。甲類風土記が『日本書紀』の撰上前に述作されたことが史実であるためには、甲類風土記の述作者について、次の5項目の条件について満足されなければならないと考える。
 ①:甲類風土記は筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向・大隅・薩摩・壱岐があり、
   その述作者は筑紫大宰府の関係者である。また、『日本書紀』が撰上された養老4年
   (720年)の前に、述作者は筑紫大宰府に在籍していた。
 ②:諸国に風土記の編纂を命じた、和銅6年(713年)5月の詔を筑紫大宰府に在任中
   に受けた。
 ③:甲類風土記には「郡・郷・里」の表記があり、出雲国風土記記載の、霊亀元年(715
   年)の「里を改め郷と為す」式を筑紫大宰府に在任中に受けた。
 ④:国文学者・瀬間正之氏によると、『豊後風土記』と『肥前風土記』の述作者の文章能力
   は、『日本書紀』β群に優る漢語漢文の書記能力を有しているとのこと。
 ⑤:天皇名の表記が『日本書紀』に採用されたとするならば、甲類風土記の述作者は『日本
   書紀』の編纂に関与していること。また、『古事記』の天皇諡号を改変したのだから、
   太安万侶より高官であること。
 

これら5条件を全てを満足する人の存在なんて信じられないと思うであろうが、「事実は小説より奇なり」で、そんな人物が存在していた。それは「栗田真人」である。粟田真人は和銅元年(708年)3月から、次の多治比池守に引き継ぐ霊亀元年(715年)6月頃まで筑紫大宰師として大宰府に在任していた。『豊後風土記』と『肥前風土記』の本文中には「里」の表記はなく、「里」の表記は「○○郡 郷□所 里△」(□・△は数字)と添え書きだけである。出雲国風土記記載の、霊亀元年の「里を改め郷と為す」の「式」が何月に発令されたか不明だが、粟田真人は筑紫大宰師の任務を終える直前にその「式」を受け取り、それまで書いていた「里」を「郷」に直したと思える。これらより①・②・③の条件をクリアしている。 

森博達氏は『書紀』の言葉と表記を分析し、α群・β群・巻30に三分した。α群は正音・正格漢文で、β群は倭音・和化漢文で執筆されたとしている。β群に優る漢語漢文であるα群の述作者を森博達氏は唐人としているが、私は粟田真人とした。(参照「38-7.『書紀』α群は粟田真人が述作した」)。粟田真人は学問僧として12年間の留学経験を持ち、大宝2年(702年)6月に遣唐使執節使として唐に赴き、則天武后に「真人は好く経史を読み、文章を解し、容姿は穏やかで優美」と言わしめている。粟田真人の漢文の能力は中国人の知識人と同等以上で、『日本書紀』β群に優る漢語漢文の書記能力を有していると思われ、④の条件をクリアしている。⑤の条件については次週に述べる。
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