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39-8.『日本書紀』VS『豊後風土記』 [39.『風土記』は史実を語っているか]

九州風土記甲類の記述には、『日本書紀』と記述がほとんど同一の文章がある。その一例が『日本書紀』の景行天皇12年の「柏峽大野の蹶(くえ)石」の記事であり、『豊後風土記』の「蹶(くえ)石野」の記事である。
  『日本書紀』 
  「天皇初將討、次于柏峽大野。其野有石長六尺廣三尺厚一尺五寸
    天皇祈土蜘蛛者、將蹶茲石如柏葉而舉焉。因蹶之。則如柏上於大虛。
    故號其石、曰蹈石也。」

  『豊後風土記』
  「天皇欲伐土蜘蛛
、幸於柏峡大野。々中長六尺廣三尺厚一尺五寸
   
天皇祈曰、當蹶玆石、譬如柏葉而騰。即蹶之。騰如柏葉。
    因曰蹶石野」
黄色のマークが全く同じ文字で、その他にも「賊」と「土蜘蛛」の置き換え、「討」と「伐」や「舉」と「騰」の書き換えがあり、『日本書紀』を参照して『豊後風土記』が書かれたとも、『豊後風土記』を参照にして『日本書紀』が書かれたともいえる。 

D21 直入郡柏原郷.jpg前述の『豊後風土記』の「蹶
(くえ)石野」の記事には、「蹶石野 柏原の郷の中にあり」との前書きがあり、柏原郷は直入郡の4郷の一つとなっている。この「柏原」は現存し、今は竹田市に編入されているが、以前は直入郡荻町柏原であった。『日本書紀』には「石室の土蜘蛛を襲ひて、稲葉の川上に破りて」、「柏峡の大野において」とある。九住山を源とする稲葉川は竹田市街地で大野川に合流する。この辺りは阿蘇外輪山麓で凝灰岩ということもあって、川が蛇行して曲所に切り立った断崖を作り、その崖には洞穴(岩陰)がある。中でも大野郡朝地町の大恩寺稲荷洞穴遺跡と草木洞穴遺跡は有名である。「柏峡」は「柏原」の原野に対する峡谷を意味していると思われる。 


D22 甲類天皇名.jpgそれにしても『日本書紀』の記述した地名と地勢は現状と合っている。『日本書紀』が述作されたのは大和である。大和にいる者が、阿蘇山麓の地名と地勢について、これほど正確に書くことができるだろうかとの疑問が湧く。これらからすると『豊後風土記』を参照にして『日本書紀』が書かれたと考える方が合っていると思える。一方、表D22に逸文を含めた甲類風土記の天皇名を示しているが、甲類風土記の天皇名は『日本書紀』と一致している。風土記にある天皇名が日本書紀に使われることは考えられないことで、明らかに『日本書紀』を参照して『豊後風土記』が書かれたとする定説に納得がいく。
 

『日本書紀』に記述された地名と地勢からすれば、『豊後風土記』を参照にして『日本書紀』が書かれたと言え、『豊後風土記』に記載された天皇名からすれば、『日本書紀』を参照して『豊後風土記』が書かれたと言える。どちらが史実なのか結論が出せない。
 
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