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39-2.風土記の成立年代と郡郷里制 [39.『風土記』は史実を語っているか]

私が最も関心あることは、「風土記」と『日本書紀』とでは、どちらが先に成立したかという問題である。『古事記』が撰上された翌年の和銅6年(713年)に諸国に風土記の編纂を命ずる「詔」が出され、その7年後の養老4年(720年)に『日本書紀』が撰上されたことから、「古事記→風土記→日本書紀」の順番に成立したと考えることが出来る。しかし、そうは言えない決定的な証拠がある。『出雲国風土記』の巻末の奥書に、「天平五年二月卅日 勘造 秋鹿郡人 神宅臣全大理 国造帯意宇郡大領外正六位上勲十二等 出雲臣広島」の文章がある。「勘造」は筆録編纂すると言う意味であり、『出雲国風土記』は天平5年(733年)に成立したことが分かる。 

風土記の成立年代は色々の面から検討されているが、律令制度下で行われた地方行政区画の再編成の変遷で見るのが分かり易い。大宝律令施行以前の地方行政区画は「国・評・五十戸」制あるいは「国・評・里」制であったことが、飛鳥から出土した木簡により確認されている。また、藤原宮から出土した木簡には「己亥年十月上挾国阿波評松里」とあり、
己亥年が文武三年(699年)で、大宝律令施行の2年前まで「国・評・里」制であったことが証明されている。その「国・評・里」制が、大宝2年(702年)の大宝律令施行で「国・郡・里」制に移行している。 

『出雲国風土記』の書き出しの総記に、「右の件の郷の字は、霊亀元年の式に依りて、里を改めて郷と為せり。」とある。この文より郡里制から郡郷里制への移行が霊亀元年(715年)に実施されたと考えられている。しかし、この「式」は他の史料に見えず、年紀が明らかな木簡で見ると、郡里制から郡郷里制への移行は霊亀3年6月以降であることから、郡郷里制の実施を霊亀3年(718年)以降に繰り下げる説も出て来ている。この郡郷里制も天平12年(740年)頃に廃止され、郡郷制に移行している。
 

『常陸国風土記』は「郡・里」の表記が25例で、「郡・郷」の表記が2例ある。「郷」の表記の一例が「郡の南二十里に香澄里
(かすみのさと)あり、・・・時の人、是に由りて霞郷(かすみのさと)と謂へり」であり、「里(さと)」と「郷(さと)」を同じに扱っている。もう一例は「郡の東七里、大田郷」とある。この「郷」の表記は誤記・誤写ではなく、「里=郷」の概念からの表記であろう。それが証拠に、和銅6年(713年)の風土記編纂の官命に、「諸国の郡郷の名は好き字を着けよ」と「郷」の字があるが、この時にはまだ郡郷里制への移行の官命は出ていない。郡里制の「里(さと)」には「郷(さと)」の文字が使われることもあったのであろう。

『常陸国風土記』は「郡・里」の表記といえる。 『播磨国風土記』は全てが「郡・里」の表記である。『肥前国風土記』・『豊後国風土記』と『出雲国風土記』は全てが「郡・郷・里」の表記である。風土記編纂の官命と行政区分の推移(郡里制→郡郷里制→郡郷制)を基準にすると、『播磨国風土記』と『常陸国風土記』の成立は713年から715年(或いは718年)の間で、「古事記→風土記→日本書紀」の順であると考えることが出来る。『肥前国風土記』・『豊後国風土記』の成立は715年(或いは718年)から740年の間で、「古事記→風土記」であることは分かるが、『日本書紀』との前後関係は定かではない。


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