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26A-8.長江下流域に野生イネはあったか [26A.イネ栽培の起源地は何処か]

図112中国古代稲遺跡.jpg『中国の稲作起源』(1989年、渡辺武・陳文華編)にある厳文明氏の「中国稲作農業の起源」には、「栽培稲の起源、特にある特定の地域が起源の一中心地であるかどうかを探ろうとするには、その地で古い稲の遺物の発見がなくてはならない。またこれ以外にそこに野生稲が分布(あるいは過去の歴史の上で存在)してなければならず、しかもこの種の野生稲は、当地の最も古い栽培稲と遺伝学上密接な親類関係を具備していなけれ
ばならない」としている。
 

そして、「問題は、中国現存の野生稲が最も早期の栽培稲遺物の分布と重ならなB101野生イネ分布.jpgいことである。最古の栽培遺物は長江下流域と杭州湾地方で発見されているのに、野生稲は主に珠江流域および同緯度のその他の地域に分布している。このことは大きな矛盾である。」と述べている。図111に中国の3000年以上前の古代稲遺跡の分布図を示す。この図と現在の中国の野生イネの分布図(図101)を比較すれば、厳文明氏の話が良く分かる。
 

厳文明氏は、二つの可能性だけが残されているとして、一つは、華南の原始村落がまず栽培化し、その後この知識が長江下流域やその他の地方に伝えられたとする考え方。もう一つは、長江下流域に元来野生稲があり、栽培稲はまず当地で育成に成功したという考え方であるとしている。前者は考古資料の証拠が得られていない。後者については、中国の歴史文献(三国志・宋書・南史等)に「野稲」の表記があり、その分布地が最早期の栽培稲遺物が分布する地域と重なっている。文献に記録されている「野稲」は、先史時代の野生稲の遺留であるとして、後者の説を支持している。この「野稲」も気候の変化、環境の変化で滅亡の淵においやられたと記している。
 

佐藤洋一郎氏はイネそれもジャポニカの栽培起源地が長江中・下流域であると考えておられる。そして、浙江省の河姆渡遺跡(7000年前)の炭化米86粒を調べ、そのほとんどが栽培稲だが、その内4粒が電子顕微鏡観察で野生稲に近いと判定され、「河姆渡遺跡の田んぼにはたぶん原始的な稲が栽培されていたのであろう。そしてあるものはより野生イネに近く、またあるものは栽培化の程度が進んでいるといった不ぞろいが見られたことだろう」と述べている。
 また佐藤氏は河姆渡遺跡の2粒の炭化米が熱帯ジャポニカであることをDNA分析から見つけ、試料が少ないので明確に言えないのであろうが、「想像をたくましくすれば、長江流域に起源したジャポニカは熱帯ジャポニカだったと考えられる」と述べている。長江下流域や杭州湾地方で稲作が始まった頃には、熱帯ジャポニカが栽培され、野生イネも混在していたと推測出来る。この野生イネの子孫が中国文献にある「野稲」であろう。 

スンダランドから海南島を経由して、約8千年前頃長江下流域に達した人々は、熱帯ジャポニカの種子を持っていた。温帯の長江下流域では、亜熱帯の中国南部(海南・広西・広東)と比較して、熱帯ジャポニカの種子が野生イネに戻ることは少なかったが、熱帯ジャポニカに交じって野生イネ・ルフィポゴンとして生息するものもあったと思われる。この野生イネが長江下流域で誕生した温帯ジャポニカと、長い稲作の歴史の中で交雑し、雑草イネとして自生するようになった。こう考えると、長江下流域と杭州湾地方で発見されている約七千年前の栽培イネの遺物も、中国の歴史文献(三国志・宋書・南史等)に出て来る「野稲」とその分布地も、そして佐藤氏による河姆渡遺跡の炭化米の電子顕微鏡の観察とDNA分析値も、何の矛盾も起こらない。


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