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26A-4.珠江中流域には銅鼓の文化があった [26A.イネ栽培の起源地は何処か]

遺伝的に見て最も栽培イネに近い野生イネの集団が、分化するに従って遺伝的に野生に戻っていく事が起こりえるのだろうか。佐藤洋一郎氏の『イネの歴史』によると、「栽培植物がその性質を失ってふたたび野生にもどる先祖がえりをすることは困難である。栽培化の遺伝的なメカニズムからみて、優性遺伝子から劣勢遺伝子への変化(栽培化)は、劣勢遺伝子から優性遺伝子への変化(先祖がえり)よりはるかにおきやすい。栽培化はおきても先祖がえりはおきにくいのである。」とある。広西の珠江中流域に出現した野生イネのGD-X1が広東のデルタ地帯に拡散していった時代と、珠江中流域のGD-X1が栽培化遺伝子を多く持つようになった時代と、時代が違うのではないかという気がする。もちろん、後者が前者より後の時代であったように思える。 
図105 広西銅鼓.jpg
広西省貴県(現・貴港市)に前漢時代の羅臼湾1号漢墓がある。羅臼湾との名から海岸と思いがちだが珠江中流域にあり、HuangKurata氏の論文でジャポニカ栽培の起源地とされた、図104で大きな黒丸をした中にある。この漢墓は出土した青銅器から、前漢武帝(179~164BC)以前であるとされている。この漢墓からは銅鼓・青銅酒器・金製品・玉璧・玉印などが出土している。図105は羅臼湾1号漢墓出土の銅鼓の写真である。
 

今井啓爾氏の「The Distribution of Bronze Drums of the Heger and Pre-Type」によると、広西省の珠江中流域からは、phaseⅠ(B.C2~1世紀)の羅臼湾1号漢墓をはじめとして、phaseⅢ(A.D2~?世紀)の銅鼓が非常に多図106銅鼓分布1.jpgく出土している。それらの出土地が地図にプロットされてあり、その地図と野生イネGD-GX1の採取地を重ね合わせて見た。図106を見ると、野生イネGD-GX1の採取地と銅鼓の出土地がものの見事に一致している。前漢から後漢にかけて、この地方では稲作が盛んに行われ、銅鼓を用いた豊作を願う祭祀が行われていたと想像する。それは、弥生時代の近畿から東海にかけての、銅鐸と稲作の関係と同じであるように思える。
 

『史記』と『漢書』には漢代の水稲栽培について、「江南は火耕水耨す」と記載されている。「耨」(ドウ)の漢字は”すきで雑草を刈り取る”という意味がある。「火耕水耨」を行ったのは江南(呉・越)と記載されているが、他の文献資料から、嶺南地方(広東・広西)やベトナムの一部の地域でも「火耕水耨」の方法で水稲栽培が行われていたことが明らかとなっている。「火耕水耨」の記載がきわめて簡単なため、具体的な内容は明確に理解出来ていないそうだが、「火耕水耨・新考」の論文を書いた彭世奨氏は、河川・湖・海岸の臨水地帯で、牛耕すのでなく火で雑草を焼き、田植えをするのでなく直播栽培で、中耕をせず水で雑草を淹死させる方法であったとしている。
 

図107ルフィポゴン花.jpg前漢から後漢にかけて、珠江中流域では水辺近くで「火耕水耨」による稲作が盛んに行われていた。その近くには野生イネGD-GX1が自生していたので、GD-GX1の花は栽培イネの花粉を他家受粉し、栽培イネの遺伝子がGD-GXに取り込まれる遺伝子流動が起こったと考える。野生イネ・ルフィポゴンの花は写真107にあるように自分の花粉で自家受粉する栽培イネと違ってオープンであり、栽培イネの花粉で他家受粉し易い構造である。これが珠江中流域の野生イネGD-GX1が最も栽培イネに近い遺伝子を多く持っていた理由であると考える。

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